中大オーケストラ、       
       マニラ演奏旅行記


 私は昭和35年から昭和39年迄の中央大学在学中は、同大学音楽研究会管弦楽部に所属し、毎日毎日ベートーヴェンベートーヴェンとやっていた関係で、現在は同管弦楽部のマネージメント監督という事になっている(因みに、音楽監督はN響指揮研究員を経て現在関西フィルの常任指揮者に就任している小松一彦先生に御願いしている。小松先生率いる関西フィルは、朝比奈隆氏率いる大阪フィルとはその方針と肌合を異にしているが、ザ・シンフォニー・ホールでのその定期演奏会は既に大阪の音楽ファンの大変な楽しみになっている)。
 中央大学は昭和60年に創立百周年を迎えるので、我オーケストラもその節には有意義な祝賀記念演奏会をやろうと考えているのであるが、それより前にヒョンな事からその前祝いとして東南アジアに中央大学創立百周年記念海外演奏旅行と銘打って演奏旅行をやってこないかとの話がとび出したので、それは面白かろうと出掛ける事にした。
 現役の学生を中心とした一行101名は音楽研究会々長である法学部教授の清水睦先生を団長に、昭和59年10月26日午前10時15分発のフィリッピン航空で成田を飛立ったのであるが、その出発に際してはチェロやバスチューバ等の大型楽器の積込みに思わぬ苦労をさせられたものの(コンバスやティンパニー、ピアノ、ハープは現地手配)、4時間10分の飛行で現地時間午後1時40分頃(時差1時間、多少遅れた)無事新マニラ国際空港に着陸した。このマニラ空港は思ったより小じんまりしているとの印象であったが(ブリッヂは五個所あり)なんとなくただならぬ雰囲気であったのは例の昭和58年8月21日のアキノ氏暗殺事件の現場だという先入観がそうさせたのかも知れない。我々は乗って来たフィリッピン航空のエアバスA310に空港ターミナルから伸びて来たブリッヂを経由して直接空港ビルに入って行ったのであるが、アキノ氏の場合はその台北から乗って来た中華航空機は空港ターミナルから離れた所に駐機され、態々ブリッヂではなくタラップで地上に連行される際射殺されたのであるから、その作為的なる事はそのタラップ使用から始まっていたと言えるのであろう。
 マニラ空港で我々を待構えていたのは、勿論そんな物騒な事とは真反対で、なんとフィリッピン文化庁関係派遣の美人多数だったのである。清水団長と私、それに現役の部長のK君が皆んなを代表して、白い小さな強い香りを放つ花で造られたレイを首に掛けて貰ったのであるが、その際歓迎のキスは何故か省略されていたのが残念であった。このレイの花はフィリッピン国花のサンパギータと言う花でその花名の由来は恋人“永遠の愛を誓う”という誠に南国らしいものであり、同名の甘いメロディの歌曲がフィリッピンを代表する民謡になっているが、この可憐な花の強い香りをかげばフィリッピンの人が斯くもこの花に愛着を持っているのかが納得させられるであろう。
 空港の出口は喧騒を極めていた。なんだか判らないが大勢の人が蝟集しているのである。映画の植民地的風景である。我々はその混雑をかき分け観光省差廻わしの3台のバスに分乗してマニラ湾を左に見てマニラの下町に近いエルミタ地区に在るYMCAに向った。我々が乗せられたバスはいすず製の日本では極普通のバス(これはその後7日間のマニラ滞在中我々の完全なる足として供されたのである)であったが、これと相前後して走っている地元のバスや乗合ジープニーと比較するとなんと我々のバスは最上等のものであって、これに近いものは極稀に走っているイメルダ大統領夫人が提唱したとかいうラブバス位だという事が判った(このラブバスとは車体にハート型にラブバスと書かれた都市バスで、これは自家用車よりもバスを愛しましょうとイメルダ夫人が提唱したものなのであるが、その料金は一区間約70円で庶民の足であるジープニーの約10円に較べて高過ぎるので、暇と金のある恋人達がデート代わりに乗るので、その意味からもラブバスと言うのだそうである)。地元のバスというのは米軍のお古かなにかで窓ガラスはなく、スコールが吹き込むのを防ぐ為にビニールだか布だかをスダレ様に巻上げて取付けてあるもので、車体の塗装は剥げ傷も付いた相当にオンボロバスなのである。これに比べれば庶民型乗合タクシーと言うべきジープニーはオンボロトラックやジープの改造車で同じく窓ガラスや後部乗降口にドアー等はないが、ボンネットの上に何頭もの馬の飾り物を乗せたり車体外枠にイルミネーションを付けたりして日本のトラック野郎以上にギンギラギンの装飾で飾りたてていて、バスよりはるかに元気な乗物である。その外にタクシーも結構沢山走っているのだが、これは殆んどいすずのジェミニである。後に乗って見て判ったのだが窓ガラス開閉用のハンドルの無いのが多い様で、窓ガラスは半開きか全開の儘の空冷方式であった。車体及びシートのクッションはヘタッており、凸凹道をガタン・スタンと腹を打ちながら走るのであった。自家用車は三菱のものとトヨタのものが多く、日産は極稀であった。これらのバス、ジープニー及び自家用車が交差点や渋滞で徐行するとすかさず新聞や雑誌を売りに小学校に上るか上らないかの可愛らしい子供らが寄って来たり、或は煙草売りの大人が同じくこれらの車に向って煙草を1本(?!)ずつ売っていたり、果ては乳呑子を抱えた痩せた母親が車の窓に物乞いをするのを見る事になるのであるが、これが世に言われるアジアの貧困だろうかと思った次第である。日本でも今次大戦後東京で似た様な光景が見られたのであるが(私の記憶では子供の靴磨き、大人のモク拾いが一般的だったような気がしている)、日本は逸早くアジア的貧困を卒業したのだとすればフィリッピンのそれは何時なのだろうと思わざるを得ないものであった。
 我々の宿舎であるYMCAはマニラ市庁舎の裏手に位置するがこれを取り巻く商店街の雰囲気は下町的であり、仲々の賑わいを見せていたが我々が気軽に外出するにはちょっとばかり油断も隙も見せられぬと言った気配でもあった。あたりの女性は皆んな眼が大きく美人だが表情がなく、他方男共も眼は大きいのだがこちらは色が黒く表情が良く判らず、いずれもその大きな眼でこちらを粘っこく上から下迄睨め廻わす風なのである。何んだか隙あらば一丁頂きと言った気配なのである。事実、空港だろうと、ホテルだろうと、ましてや街頭に於ては自分の身体から離した持物はスグに失くなってしまう御国柄なのだそうである。そう凶悪という事はないにしても、数人程度の連れでは少し心細いとも判断されたので、我々は夜は全面的に外出禁止、昼間は必要最少限度グループでの外出に限定した。以後、マニラ滞在の7日間はこの体制を維持したので特別の被害というものはなかったのであるが、多少ボラレルという被害はあった。一例としては、学生諸君が4人程で譜面台を運ぶ為に例のいすずジェミニのタクシーを利用した所、メーターが10ペソ幾等(10ペソは約150円位)と出たそうなのであるが、これに対し50ペソ紙幣で支払った所、10ペソ幾等は1人分だからと言ってお釣りを呉れなかったと言うのである(元々端数のお釣りは当然のチップとして運転手が取ってしまうのが慣例らしいのだが、この4倍取るというのはボラレたのである)。その第二例は恥しながら私の例なのであるが語学力不足でとんだ赤ゲットを演じるのであるが、私の場合も一つの原因は50ペソ紙幣(約750円)であった。と言うのは、演奏会場であるリサール・パークでリハーサルをした際、赤・黄・白の色とりどりの風船を3、40個程空に浮かべている風船売りの男がいたので、一つ幾等だと聞いた所、「セブン…………何んとか」と言うので、私はてっきり1個7ペソ(約105円位)なんだろうと思って7個買って50ペソ紙幣を出した所2ペソ銀貨を釣りに寄越したのであるが、実際相手は「セブンティ・センタボ(約10円そこそこ)」と言ったらしいのである。だとするとこれは10倍払ってしまった事になるのである。50ペソでなら男の持っている風船を全部買占めても、まだお釣りが来る計算になるのである。お釣りの2ペソも変な話だが、これは相手に同情されたのだろうかと思っている。
 さて、我々は中央大学創立百周年記念海外演奏旅行と銘打って日本を飛立って来たのであるが、これを迎えて呉れるフィリッピン側としては文化庁の下部組織であるメトロ・マニラ・シンフォニー・ファンデーション(その責任者はミスター・メンドーサ)がプロデュースする第39回国連デーの記念演奏会(In observance of the 39th Anniversary of the United Nations)に出演して欲しいと言うものであった。それで我々は1984年10月28日(日)午後4時45分から、フィリッピンのスペインからの独立運動の英雄を記念したリサール・パークにて演奏を行なったのである。此処は野外音楽堂であったので当時フィリッピンを挾む様にしていた台風22、23号がらみのスコールが非常に心配されたのであるが(本年は日本では50年来の台風上陸無し記録だというのに)、これもどうやら開演直前になって上り、同行していた当地で活躍している指揮者の大沢可直氏の指揮の下、我中大オケはフィリッピン国歌から始め、メインのプロコフィエフ作曲「ロメオとジュリエット組曲」とチャイコフスキー作曲交響曲第5番を熱演して多勢の聴衆の盛大な拍手を浴びたのである。実を言うとマニラ出発の前迄何度となく演奏旅行中止の事態を乗り越えて居た我々としては、この瞬間噫々中大オケの合奏が、テュッティが、遂にマニラの空の下で鳴り響いたかと感無量だったのである。そして、この演奏の模様は国営放送で2時間の生中継で全国放送されたのであるが、このTV中継終了後は会場では更にアン・コールとして白鳥の湖やペルシャの市場を演奏すると人々が手拍子を取ってこれに応ずる等コンサートは誠に和気藹藹であった。
 その夜観光省は我々の為にフィエスタ・パビリオンという立派な所で歓迎レセプションを開催して呉れた。そこではマニラのハイスクールからピックアップされた生徒で編成されたバンブー・オーケストラの演奏も楽しませて貰ったのである。この楽団の楽器は原則として、管楽器も打楽器も、それにピアノとハープとの中間的な楽器も全て竹で出来ているのであるが、それがなんとも良い具合の音で鳴るのである。
 又、これを演奏するメンバーがなんと皆んな大変な美人揃いなのである。スペイン3百年の統治を色濃く残す白いフィリッピーノと言われるタイプ、マレー系かインド系かと思わせるなんとも魅力的な浅黒く引締った顔立のタイプ、中でも前列中央の、その人の前だけ譜面台の置かれてないおそらくコンサート・ミストレスと思われる人は若しかすると日本人の血統ではないかと思われたが、他のタイプとは又全く異なった誠に楚楚とした風情であって、他のタイプがなんだか南国のバラだとすれば、この乙女は芙蓉の華と言う程の美女であった。然し、この人物は何故か常に俯き加減で一度もその面を正面に向けて呉れなかったのが非常に気になったのである。若しかすると我々一行が日本人だから、そして彼女と同じ年頃の(私は勿論違うが……)日本人学生の男女の一行だから、何か思う所あって正面を見たくないのではないのだろうかと気にした次第なのである。若しかして彼女の父祖に日本人がいて、何かの運命で自分は日本人になれてないが、本来はあなたがたと同じ姿で居るのが本当なんだ………、とでも思っているのではないかと考えたのだが、これはプライバシーに立入り過ぎた許されざる憶測かも知れないが、フィリッピンも日本人にとっては全くの異国とは言えない運命のしがらみで安閑と観光に専念の出来ない国なのだと実感した次第である。勿論彼女は大和系ではなく中華系かも知れないが………。然しこの美しき乙女はその美しきが故に、あのフィリッピンのファースト・レディ、イメルダ夫人が太平洋戦争の激戦地レイテ島(私の母方の叔父は此処で戦死している)のタクロバンに生れ「タクロバンのバラ」と謳われ、1953年ミス・マニラとなり翌年青年マルコスの求婚を受けた様に、きっとシンデレラになるものと信じよう。系列とか生れは捨象して結果良ければ全て良しとしよう。過去は変えられず、変えられるのは今後の未来だけなのであるから。
 その2日後には今度はインター・ナショナル・スクールで演奏会を持った。大体はアメリカ人子弟が一番多い学校なのだが、この日の聴き手としてはアメリカ系と並んで日本人子弟もかなり集まっていた。演奏会場は規複の小さなホールであったが、設備は非常に充実したものであって、音楽や演劇教育に相当な力を入れている学校だと思った次第である。日本だとこの様な場合体育館と兼用でホール的設備は殆んどないに等しいのであるが、この学校の場合体育館は別に立派なものがあり、屋外にも体育施設は充実していた。
 私が演奏旅行団に随行したのは、このマニラでの2回の演奏会迄であったのだが、一行はその後シンガポールへ足を伸し、彼の地に於てはウイーンのムジーク・フェライン・ザールを模範として建てられた由緒あるヴィクトリア・メモリアル・ホールで、シンガポール・ライオンズ・クラブ主催のチャリティ・コンサートに出演し、両国の友好に一役果して来たのである。
 以上にて、中央大学創立百周年記念の前景気は附けられたと思うのであるが、昭和60年のその祝賀記念演奏会はどの様なものになるのか、これは又来年の楽しみである。

(昭和59年11月22日記)



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