中学校時代の同窓生   
   M子さんへの手紙

拝復
 先日の歌舞伎町「南風」でのミニ同窓会的一夕の歓談、こちらこそ御世話様でした。沖縄料理で泡盛の一献は大変結構なものでした。酒の勢いもあってか、昔は無口であった同席のM君の水産大学での専門的な立場からするチェルノブイリ原子力発電所批判や相変らずお喋りな私の成長出来ない永遠の書生としての仏像巡りの話等に、話の華を咲かせて頂き愉快でした。それにしても、貴女は少し御酒を飲み過ごされ、然も郊外の駅へ戻ってからのタクシー待ちの間に風邪迄引かれてしまったとか、その責任の一端を感じ申訳なく思って居ります。どうぞ御大事になさって下さい。
 それにしても、あの晩の私の駄弁にも拘わらず早速和辻哲郎さんの「古寺巡礼」を買って来られたとの事、和辻ファンの私としては大変嬉しく存ずる次第です。
 私はあれから数日して、京都の依頼者の都合で東京での打合せ予定が京都に変更になったのを幸いに、京都での仕事は午前中に早々と片附け、午後から東山は南禅寺へ行ってみました。と言っても南禅寺それ自体を見物する為ではなく、和辻さんが「古寺巡礼」の最初の方に書いている「今夕はT君から芝居にさそはれたのをことわつて、庭の樹立の向うに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食つた。しんみりとしたよい晩であつた。(中略)水の音が頻りにきこえてゐる。南禅寺の境内からこヽの庭へはいつて、つヽじの間を流れて池になり、それから水車を廻はして邸外へ出るのである。蘭学者新宮凉庭が、長崎から帰つて、こヽに順正書院といふ塾を開いたとき、自分が先に立つて弟子たちと一所に賀茂河原から石を運んで、流水や池を造つただと云ふ。家もその時のまヽである。頼山陽が死ぬ前一二年間はしよつちゆうこヽへ遊びに来てゐた。この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。水車はその頃から自分の家で喰ふ米をついてゐたらしい。――建築は普通の書院づくりではあるが、屋根の勾配や縁側の工合などは、近頃の建築に見られない大様ないヽ味を見せてゐる。天保時代すらこの方面では今よりも偉かつたと思はずにはゐられない。」と書いているその家は何処ら当りにあるのだろう、そして南禅寺の境内から水を承けているなんて、なんと優雅なんだろう、と予て気に掛かっていたので、出来ればこの順正塾跡の家を発見したいと思って出掛けてみたのです。南禅寺(瑞竜山太平興国南禅寺)の境内はあの石川五右衛門で有名な大きな山門(三門)から奥の方丈へ掛けて一定した傾斜勾配を持った整然たる地形になっていて、そこに後背地をなす東山から湧き出る水を流下させたる為に立派に石組された水路が造られていて、これに主として境内の塔頭である南禅院と金地院の池からの水が清々しい音を立てて駆け下りているのです。さてその流水の流れ込む先に、今も順正書院は静かに在るのでしょうか?行って見ると直ぐに判るのですが、順正書院は南禅寺最前部の勅使門近くに今も確かに在りました。然し、これがなんと湯豆腐屋さんになって居るのです。
 然も、湯豆腐のチェーン店「順正」の本店ということになるらしいのです。この天保五年名園南禅寺順正と銘打たれた御店は、入口に緋毛氈の床机がおかれてこれに赤い大きな日除け傘が差し掛けられているという演出がなされていて、これを右に見て一歩門の内に入ると左に大座敷、右手の心字池越しに離れ座敷風の建物が二棟、そして正面に件の和辻さんが「夕飯を喰つた。しんみりしたよい晩であつた。」として名著「古寺巡礼」を執筆したと思われ、且又、「頼山陽が寝たこともあるかも知れない」という部屋、多分これが順正書院それ自体だと思われる建物が、なんとこの湯豆腐屋のメイン・ゲスト・ルームとしてデンと建っているのでした。その上り框には大層立派な筆になる順正書院の扁額が高々と掲げられていて、建物自体は屋根が丸く盛上った寺の書院風のもので、和辻さんが文中で誉めている通りのものです。広い濡れ縁の付いた座敷は凉庭先生が講義に使用した上段の間(白書院)だそうで、奥には茶席も有ります。この建物の背後には更に大きな建物が二棟程あって、順正書院とこの建物の間にも池があり、この池は建物の床下に迄続いている趣向です。入口を入って直ぐ右の池にかの南禅寺境内からの水が水音高く引かれてありましたが、和辻さんの言う水車は庭内にありませんでした。その代わりかどうか“ししおどし”が有りました。
 私が行ったのは昼食時を大分過ぎていた頃でしたが、それでも観光バスの団体客が何組も入って居て御店は誠に活況を呈していました。一杯きこしめした客の声高なお喋り、笑いさんざめき、大勢の女中さんの忙しない往来、これらをスッポリ包むようなスピーカーからの琴の音。そして、そのメニューは名代ゆどうふ梅2000円、桜3000円、名物本家凉庭御膳2500円、南禅寺縁の雲水料理6000円、雲水弁当1800円、京風会席6000円、ゆばの御造り、山かけ豆腐にごま豆腐、豆腐の味噌田楽各400円、果ては丹後肉の湯流肉(ゆどおしにく)6000円、伊太利油でのオリーブ焼白ブドー酒付5000円などといったもの迄あります。
 不覚にも順正書院で御飯が食えるとは知らなかった私は、既に軽い昼食を済ませていたので名物ゆどうふ“梅”を試してみました。然し、ゆどうふコースだと彼の順正書院それ自体には上げて貰えないのでした。茶席もあれば廻り廊下もある順正書院の上段の間で戴けるのは雲水料理か会席料理のフルコースに限られるのだそうで、ゆどうふの私は入口近くのその他多勢用の大座敷で、ゆどうふと、ゆばの御造りを頂きました。その味は、京都名物ゆばの御造りは結構でしたが(わさびは本物と行きたいところですが)、肝心の湯豆腐の味はイマイチでした。味としてはむしろ私の体験ではこの東山は臨済宗南禅寺派南禅寺の門前の湯豆腐よりも、丁度真反対の洛西は嵯峨野の臨済宗天竜寺派天竜寺の門前で司法研修所出所十周年記念旅行の際、渡月橋を眺めながら食べた湯豆腐の方が京都らしいまったりした味で旨かったと思います。それは豆腐そのものが嵯峨野の方が有名な森嘉のものを使っているのに対し、順正では服部という豆腐屋のものを使っているのだそうで、その両者の味の差ということになるのでしょうか。たれのだしの取り方も天竜寺派の方が上と言うべきなのでしょうか。
 さて、湯豆腐を食べ終えて他の客と共にゾロゾロと外に出て来た私は、暫く行ってヤレヤレこれが順正書院だったのかと振返って見ました所、なんとその店の前に和服姿の老哲学者和辻哲郎博士が腰に手を遣って唖然として立尽しているのがアリアリと幻視されたのでした。
 一度貴女も暇をみて行って見るのも一興ではないでしょうか。
草々
  昭和六一年一一月一〇日
笠原克美拝
 M子様御許

追伸
 順正書院を訪れた翌日は奈良の法華寺の光明皇后をモデルにしたという十一面観音と、秋篠寺の伎芸天、更には和辻さんらが俥を連ねて山越えで行った浄瑠璃寺の九体の阿弥陀如来を拝した後、宿を奈良ホテルとしたのですが、此処は日本銀行や東京駅を設計した辰野金吾の作とかの総檜造り仏閣風の建物が、和辻さんが古寺巡礼の疲れと軽い興奮を鎮めた当時その儘に、今もその桃山風の高い格子天井の「食堂では、南の端のストオブの前に、一人の美人が連れなしで坐つてゐた。黒味がかつた髪がゆつたりと巻き上りながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。目はスペイン人らしく大きく、頬は赤かつた。襟の低い薄い白衣をつけて、丸い腕は殆どムキ出しだつた。またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとつた。――妻君はまだ若くて奇麗だつたが、もう一人のきやしやな體をしたおとなしそうな娘のいかにも清らかな奇麗さにはかなわなかつた。この娘の頸は目につくほど長かつた。この恰好は畫でよく見たが、実物を見るのは初めてである。――奈良の古都へ古寺巡礼に来てかういふ国際的な風景を面白がるのは、少しをかしく感じられるかも知れぬが、自分の気持には少しも矛盾はなかつた。」という国際色豊かな光景が繰り返されて居ました。先の順正書院と較べると変わるものと変わらぬもののコントラストを感じます。


M子さんからの手紙
先日はお久しぶりに楽しいひとときをありがとうございました。あまり飲みなれない私は、すっかり酔って帰り、タクシーを待つ間が寒かったせいかカゼをひいて、次の日は、主人と子どもを送り出してから午後一時半まで寝てしまいました。今更ながら若くないんだなあと自覚してしまいました。
 学生時代にもどったようですっかり刺激を受けてさっそく、和辻さんの「古寺巡礼」を買ってきました。この次はもう少し静かな所でおしゃべりしましょう。一度は「南風」へお連れしておきたかったのです。又お会いできる時を楽しみにしております。奥さまによろしく。


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