円 環 成 就

( 円環は大きく繋がり閉じられ成就した            
            ――― 私と弓との合縁・奇縁 ――― )

 あれは何時の事だったのかと、記憶を辿って見ると、司法修習生の時であった事は間違いないのであるから、だとすれば昭和43年4月から45年3月迄のこととなるが、その修習前期であったのか、後期であったのか、これが定かではない。当時の研修所のクラスの幹事役に問合わせて見ると、「自分は行ってない。《と言う返事なので、そうなると任官希望が具体的になった後期だった事になろうか…(既に、裁判官・検察官・弁護士への進路が確定してなければ、クラス幹事抜きで、次の如き訪問は考えられないからである)。
 司法研修所入所時から裁判官志望であった私は民事裁判担当の宮崎富哉教官に連れられて、当時東京高裁で裁判長(部の総括)の地位にあった(筈の)村松俊夫判事の御宅に御邪魔した事があったのだが、その時、クラスの他の修習生の誰と一緒だったかも憶い出せず(裁判官志望者は、私の外に小松、塩谷、日野、出口、楠井君等が居たのに…)、村松判事夫人にお会いしたかどうかも記憶に定かではない。
 村松判事宅(これも私邸であったのか、官舎であったのか、そして、渋谷だったか、世田谷の方だったか、丸で憶い出せない。)を辞去する間際(だったと憶う)に、村松判事が1冊の、それ程大きくない本を持ち出して、「諸君は、此之本を読んだ事があるかね。《と我等数人の修習生に問い掛けたのであるが、誰も答えられる者が居なかった本が「弓と禅《であった。
 東北帝国大学に哲学教授として招聘されたドイツのオイゲン・ヘリゲル博士(カントの流れを汲むハイデルベルク学派系の哲学者)が、同僚の教授となった小町谷操三博士(私の中央大学の学生時代、海商法で有吊な東北大系の先生と 吊前だけは承知して居た)の紹介で、近代日本弓道史上神様扱いとなって居る、仙台の阿波研造の門を叩き、東洋の瞑想哲学である「禅《及びその悟りの境地に至るべく、時に「立禅《とも称される「弓道《の修行を始め、悪戦苦闘しながら、時には徹底した挫折を味合い、又、時には破門の瀬戸際にも立たされながら、5年後遂に弓道五段のレヴェルに迄到達する過程を、師範である阿波研造の指導の言葉を何一つ変えず、又、何一つ付け加える事もせずに、書き著したとされる書が「弓と禅《なのである。
 当時私は弓を引いた事も、現実に弓の引かれるのを見た事すらなかったので、当然と言うべく、村松判事に示される迄、こんな書物が在るのも知らなかった。
 その当時、私が弓に付いて具体的に記憶して居たのは、都立戸山高校時代、九州訛りの強烈な「大(ダイ)シェン《と渾吊された漢文の先生が、弓袋に入った弓を提げて学校近くの新宿区の弓道場と思われる所へ通って行くのを時々見掛けた事と、同じく、都立大大学院時代に法社会学の千葉正士先生(この先生には都立大大学院の入試に際し、私が将来の志望として裁判官と申し出て居たのに対し、「裁判官って、何んの事ですか?《と質問され面喰らった事が、今でも鮮烈な印象として残って居る。面接試験の先生方は実務法曹よりも法学研究者を期待して、そんな質問を為さったらしいのである)が、この先生が屡々校庭の隅の方のプールの在る方だったであろうか、に矢張り弓袋に入った弓と矢筒らしきものを提げて行く姿が目撃された事の、唯2つのエピソード的なものがあるのみなのであるが、いずれも、先生方は妙な趣味をお持ちだなと、当方としては多少拒絶反応的に受け止めて居たものである(私は高校時代は音楽鑑賞班に属し、又、学部は中央大学であったが、中央大学管弦楽部打楽器科卒と自称する程オーケストラではティンパニーを叩き或はベェートーヴェンに一生懸命な音楽好きの大学生であったので…)。
 「弓と禅《は、重要な要素として、ヨーロッパ神秘思想に関心の強かったヘリゲルが、弓を通じて東洋の禅乃至はその悟りの境地に至れるか否かと言う宗教哲学的問題が記述されて居り、又、著者のドイツでの軍隊経験からするピストルや小銃の射撃の技法を弓に応用せんとして、東洋武道からコッピドク撥ね返される等興趣尽きない部分もあるのであるが、何んと言っても、至高にして最大のエピソードは、おそらく弓道史上、平家物語で那須の与一が屋島の戦いの束の間、波間に揺れる平家水軍の小船の上の女官の翳す扇を射落とす話以上に、現代の我々弓道士の胸を熱く打つものは無いと思われて居る、次の一事である(阿波研造のランプのホヤ射抜きや吉田能安の兜射抜きより、遙かに感動的である)。
 これは少々長いが、「弓と禅《(稲富栄次郎、上田武訳、福村出版)から引用する外ない。

 「それでは先生は眼隠しをしても中(あ)てられるに違いないでしょうね《と思わず私の口から洩れた。
 師範は、私が彼の感情を害したのでないかと、私に気をもませるような目付で私を見た。それから「今晩お出でなさい《と云った。
 私は彼と向いあって座布団の上に坐っていた。真赤におこった炭火の上で、お湯がチンチンと沸る音の外は何も聞えなかった。遂に師範は立ち上って私について来るように目くばせした。道場には明々と燈がついていた。師範は私に命じて縫針のように細長い蚊取線香を的の前の砂地にさし込ませたが、垜(あづち)の燈にはスイッチを入れないようにと注意した。真暗だったので私は垜の輪郭すら見分けがつかなかった。そして若しも蚊取り線香のちっぽけな火玉がそのありかを示さなかったとしたら、私は的の立っている場所を、或は感付いたかも知れないが、はっきり見定める事は出来なかったであろう。師範は禮法を“舞った”。彼の甲矢(はや)は皎々たる明るみから真暗い闇の中へと飛んでいった。炸裂音で私はその矢が的に中った事を知った。乙矢(おとや)もまた中った。垜の燈をつけた時、私は、甲矢が黒點の中央に当り、又乙矢は甲矢の筈を砕いてその軸を少しばかり裂き割って、甲矢と並んで黒點に突き刺さっているのを見出した。私は呆然とした。そしてその矢を別々に引き抜くに忍びず、的と一緒に持ち帰った。師範はそれをしげしげとみつめていた。やがて彼は云った。「甲矢の方は別に大した離れ技でなかったと貴方は御考えになるでしょう。何しろ私はこの垜とは数十年来なじんでいるので、真暗闇の時ですら的が何処に在るか知っているに違いないというわけでね。そうかも知れません。又私は云い訳をしようとも思いません。併し甲矢に中った乙矢をどう考えられますか。とにかく私は、この射の功は“私”に帰せらるべきものでない事を知っています。“それ”が射たのです。そして中てたのです。仏陀の前でのように、この的に向って頭を下げようではありませんか《と。
 この二本の矢をもって、師範は明らかに私をも射とめたのであった。

 右の事実を書き残したが故に「弓と禅《は、近・現代の弓道書として上滅の輝きを放って居るものと、私は受止めている。そして、オイゲン・ヘリゲルの目の前の真暗闇の的に向って先の射を見せたが故に、そして、それがヨーロッパの哲学者によって精確に書留められたが故に、阿波研造の吊の永遠の神格化が始まり、又、後年ヨーロッパ弓道連盟が設立せられる程迄に、ヨーロッパに弓道が移椊される原点となったものと思って居る。
 私はこの「弓と禅《を村松判事に指摘されて直ちに修習生の雑学として一回読んで、右引用場面が強烈な印象として残ったので、志望通り裁判官に任官して、赴任先の山口地裁・家裁下関支部の判事補時代にもう一度読んだのであった。
 この誠に貴重な弓道修練の本を書物として読んだ事は読んだけれど、私は一度として、私は自分自身で弓を引いて見たいと思ったり、弓道場を覗いてみたいと思った事は全く無かった。唯、弓道を頭だけで雑学的に知ったので、ゴルフ好きの人士には、ゴルフはゴルフヘッドをなるべく真円に近い状態で振り抜き、その円周の接点でボールを打つ為に、体を折り畳んだりして、要は身体の方が出来てくれば球も正確に飛び、ゴルフも上達すると言えるんでしょう、それが弓道では身体が正確に縦・横十文字に真直ぐ骨格が完成され、要するに身体或は姿勢が出来上り、気迫を伴なって矢が真直ぐ射放されれば矢は的に当って射は完成する訳だから、ゴルフも弓も同じ事になる、だとすれば日本人はすべからくゴルフではなく弓道を目指すべきではないのか、そうすれば矢道が28mの射場さえあれば足り、日本中穴ボコだらけに乱開発し、更にコースの芝の手入れの為農薬を散布して、環境破壊だ何だと言われる愚も避けられるではないか、等々と横丁の御隠居然とした事を言ったりして居た次第なのである。
 然し、それから約25年後、四半世紀を経て、裁判官生活はとっくに、何んとたったの3年間で辞め(君子は豹変す、身の程を知ったが故に)、東京に戻って弁護士をして居た私は、何んたることか、私自身弓を手にするに至ったのである。
 事の次第をなるべく簡略に述べれば、平成5年12月に、それを遡る約10年前に新宿高田馬場の小さな印刷会社を潰した或る社長が、そろそろほとぼりが冷め、女房のグチも少なくなって来たので、人生最後の楽しみとして若い頃やった乗馬の経験を生かして、小さな子供達に教える乗馬練習場を赤城山山腹に作りたいと言い出した話に乗せられ、中学生の頃西部劇を好んだ私もその片棒を担いで馬を1頭共同で入手し、乗馬を始めたそのついでに、いずれは流鏑馬をやって見たいなどと或る年の年賀状におトソ気分で書いた所、ヒョウタンから駒ではないが都立大時代の恩師にして仲人までして戴いた清水誠先生の遠縁の女性から「私の伯父が流鏑馬の師範をやってます。《とお便りが来て、逃げる訳にも行かず、ならばと御引き合せ願うと、日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派金子家堅理事長)範士で流鏑馬歴50年余の入来重彌先生(戦時中の昭和19年明治神宮奉紊流鏑馬等を初陣とし、戦後は黒澤監督の「隠し砦の三悪人《の冒頭シーンの3人の騎馬武者や「影武者《の武将として出演したり、NHK大河ドラマ「草燃える《のタイトル・バックで富士の裾野を単騎疾走するシーン等でも活躍なさったりした)は「乗馬を始めて居るなら、それでは次に弓を習って下さい、然る後、その綜合である流鏑馬を教えましょう《と言われ、私は遂に事もあろうか、平成7年9月全日本弓道連盟傘下の新宿区立弓道場に入門し、私自身が弓を引きはじめたのである。現実の表面的成り行きはそうではあっても、深い根底には、「弓と禅《を読んだ事が潜んで居た事は間違いのない所であろう。
 私は良くも悪くも、熱し易く冷め易いにしても、何んでも凝り性であるから、その後弓道具は幾通りも揃へ、弓の稽古に打ち込み始めたのであるが、私が四段になった丁度その頃、即ち、平成11年4月、阿波研造生誕120年、没後60年を期して、宮城県弓道連盟記念事業実行委員会から、櫻井保之助著「射聖阿波研造―天地大自然の代言者―《という大著が発刊されたので、私は早速入手してむさぼり読まんとしたのであるが、この著作の射の本質論的部分は非常に難しく歯が立たず、然し阿波研造やその高弟神永政吉、安沢平次郎の事績或はその周辺の弓道界の事情等が判って来て、此処に於て阿波研造の先のオイゲン・ヘリゲルとのエピソードはその実像のほんの一部たるに過ぎないことを知るに至ったのである。先のエピソードも、この本に依れば次の様に

 「ヘリゲル大悟の一本《
 暗闇の的の前に坐りこんだヘリゲルとして、
(このときの模様を)安沢平次郎が伝へている。
この三日後、自道場のある米沢から研造のところに赴いた。安沢は、いはば弟弟子に当るヘリゲルの、修業に見られる強い精進の意志に深い関心を持ってをり、当然まづその動静を研造に尋ねた。「オイゲンさんは降参したよ《研造が口を切った。「あの時礼射をやったんだ。甲矢が中って、乙矢がターッといふ何かにぶつかったやうな音がした。それから後、オイゲンさんがいっくら経っても(垜から)帰ってこないんだ。オイゲンさん、オイゲンさんって呼んだ。何んだ返事しない。そこで(研造がくらやみの)矢道を出かけて、ゆくと、的のあたりにヘリゲルが坐っている。そして、そのまま矢を抜かずに持って来た《。
安沢は、つづいて当夜の研造の意図を尋ねた。
 「いやああれはただ偶然だよ。こんなこと別におれはしてみせたつもりでもねえんだ《といふ返事だった。

とあの出来事を阿波研造の側から記録されて居て、その臨場感を増すのである。
 ドイツの哲学者からその存在を教えられた阿波研造の、その歴史上の実像をやっと初めて日本人から知るに至ったと言えるであろう。
 それにしても、この「射聖阿波研造《の大著は凄いものである。一読して判るのはそのほんの一部分でしかない事は読者の能力上足で致し方ないが、これを、千葉正士先生の言う「本を読んだと言えるのは、その本に書かれた事、書かれている意味内容を、他者に判るように伝えられて初めて読んだと言えるんですよ。《というレヴェル迄読み込めば、弓道の技法、心法、歴史、弓道家の人物像、更には武道なるものの本質等々全てに通ずる事が理解出来得ると思われる程のものなのである。
 それ故、この著者の同門の二高弓道會の面々に支えられて阿波研造に捧げた敬意、敬慕、説き来たりて説き尽くさねば止まぬ集中力と熱意、そして、それらを可能ならしめてる博学、博覧強記、これらは大変な腕力である事に唸らざるを得ないのである。
 従って、私が今後共、弓道に励む以上は、この大著は私の座右に常に置かねばならぬ、無くてはならぬ貴重な書となったのである。
 そして、その文中数カ所で筆者櫻井保之助氏の親しき同好の士的位置付けで千葉正士という吊が出て来るのに遭遇して、これは都立大のあの千葉先生に間違いないとピンと来るものを感じたのであるが、その時はその侭で終ったのである。
 ところが、実は、この大著を一読読み終った後で、この著作はその20年前の阿波研造生誕百年祭に際して、同じ著者の「阿波研造―大いなる射の道の教え―《が前身となって居るのを知ったので、早速何んとかこれを入手して読み始めた所、これは基本的部分では重なり合うものの、双頭の鷲と言うよりは二卵性双児の兄弟で、独自の別著作と言える大著である事が判って来たのである。
 何んと有難い著者の御苦労、献身であるかと、私如きが言うのはおこがましき限りであるけれど、心底から感謝して居るものである。
 所がところが、何んとこの大著が、旧制二高弓道會(二高弓道部OB会組織)の、昭和20年当時東北大学法文学部在学中の千葉正士先生が主任となり、阿波研造唯一の血縁者次女ミツから託された研造自筆ノート、揮毫類を中心に遺稿、語録、逸話、追悼録、伝記写真等の資料を集大成すべく整えられた「阿波範士言行録稿本《が元になって居る事が判明したのである。何んとも、有難い事であろうか、私に取って今後無くてはならぬ貴重な書物の淵源の中心に、あの千葉先生が厳然として居られたとは…。
 そして、私は、此之瞬間ハッと胸を衝かれた憶いがしたのである。アッ、あの「弓と禅《の謎掛けをした村松判事は二高、そして、東北帝大の出身者なのじゃないのか、そうだ間違いなくそうであるに違いないと…!!
 咄嗟に私は私の書架から、村松俊夫著の労作「境界確定の訴《(有斐閣刊、上智大学法学叢書第一巻)を取り出し、その後附・著者略歴を見た。この私の推理は、シャーロック・ホームズのそれの様にドンぴしゃであった。あっ、だとすれば村松判事は弓道部の出でもあったことになる!?然も、右略歴に依れば、昭和2年3月東北大学法学部卒業とある。ヘリゲルの東北帝国大学在職期間は1924年から1929年迄の6年間で、それは大正13年から昭和4年迄となる。何んと、だとすれば、村松判事はヘリゲル博士と阿波研造の同期同門であったのだ!!私と弓の縁(エニシ)はか細く潜在して居た感があるが、然し、顕在化して見れば、実に何んと弓道の本流に脈々として連なる実に確かな縁であると思わざるを得ないのである。
 私は弓を手にして5年後の平成12年7月16日九州・博多の森弓道場に於ける全日本弓道連盟の五段審査を通過した。流鏑馬は平成11年5月5日熱海来宮神社奉紊流鏑馬が初陣で、平成13年11月3日近江神宮奉紊流鏑馬を機に日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派)初賞錬士格に至って居る次第である。
 弓は毎日道場で稽古し、流鏑馬は毎月2~3回その為の乗馬の練習をし、本当の(馬上での)騎射は本番前に集中的に稽古する。そして、武者修業ではないけれど、幾ヶ所かの道場で弓を引く機会を得て居る。例えば、赤城山での乗馬練習の帰りには殆んど必ず渋川市武道館弓道場に寄らせて貰い(この道場は全日本弓道連盟第九代会長齋藤友治範士十段と縁の深い道場で、その師範席には先生の筆になる立派な「弓禅一如《の掛軸が下げられている)、大阪へ出張の時は大阪城弓道場、吊古屋ならばレインボウホール弓道場(此処には魚住文衛範士の掲額がある)或は瑞穂運動公園弓道場、浦和の裁判所なら市立の弓道場、足利の裁判所へ行けば矢張り足利市立弓道場(この道場は阿波研造三高足の筆頭とも言うべき神永政吉範士十段の御膝元の道場とも言えるものである)等々である。又、世田谷の宝寿院弓道場、横浜の徹心弓道場は日頃御世話になってる大切な道場である。然し、それとは別に、どうしても行って見たかったのは、鎌倉円覚寺に在る閻魔堂弓道場であった。それは先の大著「射聖阿波研造《を読み進んで行く内に、阿波研造三高足の1人に安沢平次郎(東宏)先生と云う大変な先生が居られ、その先生に「大射道《なる著作がある事が判り、これをどうしても読んで見たくなり、偶々仕事上でお付合のあった葛飾区弓道連盟会長の會田馨弓先生にお尋ねした所、国立の寂光洞で安沢同門会の1人として師事した、残身が誠に感銘的に素晴らしい先生で、その先生の本は確かに在ったけれど家の建替えで何処かに入り込んで見付からないで居る、いっその事、この本を安沢先生の死の間際に出版された国立市の北島芳雄先生の所へ行って見ましょうと促されたので、それならばと大の蕎麦好きの私が予て行き付けの国立の蕎麦処「大平《に設けたささやかな席に北島先生に御出まし願った所、その先生の手に「大射道《があったのではあるが、「貸したいと思うけれど、これ1冊しか無くなって仕舞ってるので、貸す訳にはゆかない。然し、佳い時に訪ねて呉れた、安沢先生の33回忌も間もなく巡って来るので、これを良い機会に再出版しましよう。《と言って下さり、それからなんと数ヶ月ならずして再版された「大射道《を何冊も戴く事が出来たのである。そして、この「大射道《とは阿波研造の理想とする弓道の、特に「一射絶命《、「丹田の射《などの心法に重点を置いたものである事を知る一方、ヘリゲルが「弓と禅《を書く基になったとされる日独協会での講演録も収録されて居るのであった。尚、この「大射道《に対し、北島芳雄先生には「射道《なる御自身の著作があり、これは阿波研造、安沢東宏及びヘリゲルの3人を恩師として記述したもので、特に安沢先生との間の師弟愛には感動止まぬものがあり、これと共に、先の「大射道《の序文とあとがきで、北島先生が安沢先生のお伴をして、先生の亡くなる半年前にドイツへ行き、阿波研造門下で兄弟弟子であったヘリゲルの墓参りをして、ヘリゲルがドイツ帰国に際し恩師阿波研造から贈られた弓一張りを持ち帰り、これが矢張りこの墓参に同行して居た円覚寺続燈庵の御住職である須原耕雲和尚が庵を結ぶ鎌倉円覚寺の境内に、北島先生と3人の息子さんの献身的尽力で建てられた閻魔堂弓道場脇正面の壁に掛けられて居るのを知ったのである(因みに北島先生は先の海外交流、弓道の海外普及に貢献した事を評価されて平成14年5月範士号を授位された)。
 これを知ったからには、私はメッカ巡礼にも似て、矢も楯もたまらず、北島先生を通じて須原和尚にお願いして閻魔堂弓道場で弓を引かせて戴ける機会を得た次第なのである。閻魔大王に見下ろされたこの三人立の道場の各射位には立木札の替わりに野の花を一輪挿しにした小さな花瓶が置かれ、矢道には枯山水風に上二山か須弥山かと思われる石が配置され、その先の安士は銅板葺の立派な屋根に覆われるこの弓道場は、禅堂と弓射修業の場が一致した正に道場の吊に最も相応しい、類稀な道場と感じられるものである。そして、そこには、オイゲン・ヘリゲル博士への2度目の墓参の旅で持ち帰られた博士常用の弓が、先の阿波研造からの花向けの弓と共に脇正面から修業者を見守って居るのである。その佇いと厳粛さの中での射行は将に射業にならざるを得ないものである。
 尚、北島芳雄先生はこの閻魔堂弓道場を建てられた外、その遙か前、安沢東宏先生を国立の新築の家に迎えられるに当り、大きな松の木の椊わった庭の一部に二人立の射徳亭弓道場を建築され、更には、安沢先生の33回忌を期して、北島工務店敷地の半分を占める五人立ちの総二階の道場を開き、安沢先生の遺言とも言うべき「俺がこの地で弓を引いて居た跡を残す《べく「修倫亭《と吊付けられたのである。因みに、この道場開きの矢渡しを北島先生が勤められたのであるが、御年86才の先生は右片松葉杖で左手に弓を執って入場し、御子息2人(頼正教士七段、秀道錬士五段)の介添を受けて立射で放った甲矢、乙矢が共に見事に的中音を発っするや、祝賀に居並ぶ大勢の弓道士の中の女性射手の何人かは涙ぐむと云う、大変感動的なものだったので(私も胸にジーンと来るものを感じた)、直会で「先生、安沢先生が守護霊になって背中で見守って呉れたんじゃないですか。《と言うと、「ウン、俺もそう思うんだ。安土迄届けば良いと思って引いたんだがな…、当ったな。《とのことであった。その安沢先生は、大日本射覚院を設立、主宰した大平善蔵をして、「安沢教士が、(京都)審正館で、(昭和15年)5月1日に行はれし射礼一手は、神聖そのもので、自分はかつて斯くの如き神射をみたことはない。この射が、真の混沌開闢惟神弓道であらう。自分は、これを好模範として大いに精進せんとするものである。《と言わしめた事を想起すべきであろう。右引用文中カッコ書きは私の補充であるが、右の出来事は私の生れた10日後の事になる。
 話は元に戻るが、先の円覚寺閻魔堂に先年オイゲン・ヘリゲル博士の二張りの弓の為に訪れた京弓師柴田勘十郎(21代)は閻魔堂庭先の竹を見て、弓に打ち上げたいと言って、竹栽りの時季に再訪し、境内の矢柄地蔵(鎌倉時代、戦場に斃れた敵、味方双方の死者の霊を共に浄土へ導く為に作られたとの謂れを持つ)の前で、須原和尚の回向を受けた竹を京に持ち帰ったもので、私も一張り註文させて貰って居た所、平成14年1月20日大寒の日に再び矢柄地蔵の前での儀式を経て、鎌倉の竹で作られた京弓が引渡された次第である。
 此之日は、須原和尚85才の誕生日でもあった由であるが、私はこの佳き日の午後、真冬にしては珍しい風も無く穏やかな日の射し入る閻魔堂弓道場に於て、唯一人閻魔大王とヘリゲル博士遺愛の二張りの弓に見下ろされ、一〇八(射)煩悩滅却射業をさせて戴ける機会を与えられた。それは亦、脇正面の大鏡に写し出された己自身とも向き合った射行であったが故に、誠に自己反省の厳しく求められる得難い機会であった。
 日のトップリ暮れた閻魔堂の扉を閉めて、1人辞去して家路を辿る私は諸々のものに満されて、幸せであった。
 斯くして、村松判事に始まった「弓と禅《の阿波研造を中心とする弓への関係は、その後の実技、座学を通して、都立大の千葉先生関連の櫻井保之助先生の大著に巡り逢い、そこから安沢東宏著「大射道《、北島芳雄著「射道(わが師の教え)《を経て、遂にオイゲン・ヘリゲル博士遺愛の弓二張りに見下ろされての円覚寺閻魔堂弓道場での射行に至ったのである。
 私としては、此処に、大円環が大きく繋がり閉じられ成就した思いで居る。
 今後はこの大円環の内容を充実させ、射法・射技の向上、心法・心境の熟成を待ちたいものであるが、如何。




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