法然院覚書

 京都に哲学の小道なるものがある。一見京都には相応しい様な気もするが、それは京都学派の西野幾太郎博士や田辺元教授がその思索を深める為に、瞑想に耽りながら散策したと云うイメーヂがあるからであろう。場所的には永観堂の先の若王子から東山々麓を銀閣寺の方に向って流れる疏水沿いにある。このインクラインから下ってくる水流は浅いが清冽というものではなく、この小道の道巾狭い両側には花の季節なら少しはましだろうかと思われる桜の若木が並木を作って居る。所々に観光客用に赤毛氈敷きの床机に赤い日除傘を差し掛けた茶店やみやげ物店が、哲学に無縁な修学旅行の中学生男女を店先に集めたりしている。西田哲学を日本の哲学の古典と考えるにしても、その古さはせいぜい7〜80年である。だから哲学の道の古さもそんなものなのであるが、その程度では1200年の歴史を誇る京の都では新し過ぎて、その歴史的ロケーションからは全く浮上って仕舞う事はかの京都タワーとさしたる径庭はない。
 或る時この哲学の小道を歩いていた私は、京都に来てこれでは叶わんとばかりに、つっと右は東山寄りに逃げる様にこの道から離れた次第である。すると途端にそこには京都それ自体の京の古道が在ったのである(もっとも、奈良の山野辺の路という程古くはないのは当然であるが……)。そしてそこは大文字山は如意ケ嶽の真下であって、そこに(本山獅子谷)法然院が在ったのである。その境内の老杉の巨木の鬱蒼として創り出す幽邃極まりない参道のしずもりが、俗汗にほてった身心をどれだけ清冽に鎮めて呉れた事であろうか。この鬱蒼と暗い参道から一段高く明るい空を背景に建つその姿の得も言われぬ美しい茅葺の寄棟風の山門を透して、その向うの空に差出された枝振り葉振りの良い新緑ではあるが一部薄黄色を含んだ楓樹の一枝を見た時、私は一瞬浄土の至福に浸ったと思えたのだが、あれは錯覚だったのであろうか……、今でも繰り返しはっきりと憶い起こす事が出来るのに……。
 その法然院に谷崎潤一郎の墓のあるのを、その日偶然にも知った。その墓は墓地の最上段に東山を背にして西面して設置されてあるのだが、その墓石は自然石2箇を左右にしつらえ、潤一郎書として空・寂の2字が穿たれて、その前に平たい自然石に手向け用水入れを銅板加工して埋め込み、その左右に竹筒の花立て1対、線香立て1箇が設えられているものであった。そしてこの墓石の後方中央に1本の枝垂れ桜が植えられていたのであった。
 私はこの墓の構造を見た時、はてこの桜の木は本居宣長の墓と共通点があるなと思った。本居宣長の墓を私は見た事はないのだが、小林秀雄著「本居宣長」(新潮社刊)は冒頭本居宣長の遺言書から書き始められるのであるが、その遺言書には宣長は自分の墓を正面図・平面図の図解入りで墓碑は「本居宣長之奥津紀」と書き「石碑の裏並脇へは、何事も書申間敷候」、「石碑の前に花筒など立候事、無用に候」、墓碑の後方には塚を築いて芝を伏せこの塚の頂上に山桜を1本植えろと書いてあると言うのである。更に「植候櫻は、山櫻之随分花之宜き木を致吟味 植可申候、勿論、後々もし枯候はば、植替可申候」として、花ざかりの櫻の木が描かれているのであった。
 私は本居宣長の山櫻の絵入りのこの墓之図を見ていたので、法然院の谷崎潤一郎の墓の枝垂れ桜を見て、突嗟に谷崎潤一郎は本居宣長の墓を見習ったのではないかと思ったのである。あの源氏物語の大研究家本居宣長、源氏物語をして「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐうべきふみはあらじとぞおぼゆる」(玉のをぐし、二の巻)と熱烈に評価する本居宣長、それに対して現代文訳としての谷崎源氏の作業を行った谷崎潤一郎との共通点に櫻があっても不思議はない。「花はさくら、櫻は山櫻の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」(玉かつま、六の巻)。
 私は東京に戻って谷崎の墓に付いての手掛りは何か無いものかと、先ず我家に2冊しかない谷崎作品の1つ「鍵」をパラ/\と繰って見た。駄ジャレで言えば、この棟方志功の木版画入りの中央公論社の初版本には、確かに主人公の1人は死ぬけれど墓に関してはなんの「鍵」も隠されて居なかったのである。次に、同じく棟方志功の版画入り中央公論社初版本「瘋癲老人日記」を見る。驚いた事にこの作品のメインテーマが墓捜しと墓作りである事を発見したのである。
 息子の嫁にやや異常とも言える性愛感情を抱く77才の老人にその老妻が話し掛ける。大旨、「オ墓ノコトハドウナサルノ。来月ノ大文字マデニハ決メルッテオッシャツテタデセウ」「コノ暑イノニコノ體デハ行ケサウモナイ。オ彼岸マデ延バスコトニシヨウカ。予ハ日蓮宗ガ嫌ヒナノデ、津土力天台ニ變へタイト思ッテヰル。出来レバ京都ノ法然院力眞如堂アタリへ埋メテ貰ヒタイ」といった会話が交わされて居る。これは当方の当面の関心事に手応え十分である。
 「死ンデシマヘバ何處ニ埋メラレタッテ構ワナイヤフナモノダケレドモ、今ノ東京ノヤウナ不愉快ナ、自分ニ何ノ因縁モナクナッテシマッタ土地ニ埋メラレルノハイヤダ。出來レバ父ヤ母ヤ祖父ヤ祖母タチノ墓モ、何處カ東京デナイ所へ持ッテ來チマヒタイクラヰダ。祖父母ヤ父母ニシタトコロデ、昔最初ニ埋メラレタ場所ニ埋メラレテヰル譯デハナイ。祖父母ノ墓ハ深川ノ小名木川近クノ或ル法華寺ニアッタノダガ、ソノ後間モナクアノ邊一帯ガ工場地帯ニナッタヽメニ寺ハ淺草ノ龍泉寺町ニ移り、ソコモ大地震デ焼カレタノデ、今デハ多磨墓地ニ移ッテヰル。ダカラ佛様達ハ東京ニ置イトカレルト、骨ニナッテカラモ始終アッチコッチへ逃ゲ廻ラナケレバナラナイ。サウ云フ點デハ何卜云ッテモ京都ガ一番安全デアル。先祖代々江戸ッ子ダト云ッテモ、五六代先ノコトハ分リハシナイ。予ノ家モ遠イ/\先祖ハイズレ京都アタリカラ出タモノト思フ。兎ニ角京都ニ埋メテ貰へバ東京ノ人モ始終遊ビニ來ル。「ア、コヽニアノ爺サンノ墓ガアッタケナ」卜、通リスガリニ立チ寄ッテ線香ノ一本モ手向ケテクレル。江戸ッ子ニ一向由縁ノナイ北多摩郡ノ多磨墓地ナンゾニ葬ラレルヨリ遥カニ優シダ。」「サウ云フ意味カラハ法然院ガ一番適當ヂャナイデセウカ」「(一乗寺)曼珠院トナルト散歩ノツイデニ立チ寄ルニハ遠過ギマスシ、黒谷(眞如堂)ニシタッテワサワザデナケレバアノ板ノ上マデオ詣リニハ行キハシマセンカラネ」「法然院ナラ今デハ街ノ眞ン中デ、市電ガ直グ傍ヲ通ッテマスシ、疏水ノ櫻ガ咲ク時分ニハ一層賑ヤカデスシ、ソレデヰテ一歩寺ノ境内ニ這入ルトアノ通リ森閑トシテ心ガ自然静マリマスシ、アスコニ限ルト思ヒマスワ」と言う事で墓地は法然院に決定するのである。
 次に、墓の構造だが、これも「コレカラオ寺ノ石屋ヲ呼ンデ、墓ノ様式ニツイテイロ/\相談シナケリャナラナイ、サウ簡単ニ決メラレヤシナイヨ」とある。さあ、桜の樹が出て来るであろうか……。残念ながら出て来ないのである。
 「墓石ノ様式ニツイテハ、予ニサマ/″\ノ案ガアルノデ、未ダニ執レニシテイヽカ迷ヒ抜イテヰル。死ンデカラ後ドンナ形ノ石ノ下ニ葬ラレヨウト差支ヘナイヤウナモノダガ、予ハ矢張リ氣ニナル。ドンナ石ノ下デイヽト云フ譯ニ行カナイ。少クトモ今日一般ニ行ハレテヰル長方形ノノッペラボウノ石ノ表面ニ戒名又ハ俗名ヲ記シ、ソノ下ニ臺石ヲ据エテ、ソノ前ニ線香立テノ穴卜手向ケノ水ヲ備へル穴トヲ穿ッテアルアノ形式、アレハイカニモ平凡デ、俗ッポクッテ、何事ニモ旋毛曲リノ予ニハ氣ニ入ラナイ。父母ヤ祖父母ノ墓石ノ形式ニ反スルノハ申シ譯ナイガ、予ハドウシテモ五輪塔ニシタイ。」
 「トコロデ、ココニ又一ツ別ナ考ヘガ予ノ胸ニアッタ。出來レバ颯子(嫁)ノ容貌姿體ヲコノヤウナ(上京区千本立賣上ル石像寺の阿彌陀三尊石佛の觀音、勢至の二脇侍立像のような)菩薩像ニ刻マセテ密カニ觀音カ勢至ニ擬シ、ソレヲ予ノ墓石ニスル譯ニハ行カナイモノカト。颯子ノ立像ノ下ニ理メラレヽバ予ハ本望ダ。夕ヾ困ルノハコレヲ實行ニ移ス方法如何デアル。」  「予ハ最初、予ガ何ノ目的デ颯子ノ足ノ裏ヲ拓本ニ取ルカヲ、彼女ニハ秘スル積リデアッタ。彼女ノ足ノ裏ヲ佛足石ニ彫ラセ、死後ソノ石ノ下ニ予ノ骨ヲ埋メテ、ソレヲ以テ予ト云フ人間、卯木督助ノ墓ニ代ヘルト云フ案ハ、颯子ニモ知ラセナイ方ガイヽト考へテヰタ。」
 以上の如く、作品の中では谷崎の墓石の形式は五輪塔、菩薩像、仏足石と変遷を辿るのであるが、現実の著者谷崎の墓は自然石1対に空・寂と刻んだもので、その「空」の方は作品中にも登場して主人公と一緒に墓探しをする京都に嫁いで居る事になっている老妻の妹の五子とその主人桑造夫妻と思われる渡辺明と重子(「細雪」では三女雪子として登場しているそうである)のものであり、「寂」の方が潤一郎と松子夫人のものである。そしてこの2つの墓石後方中央に技垂れ桜1本というものであったのであるが……。然し、残念ながらこの技垂れ桜に付いてはこの作品には遂にヒントすら出て来ないのであった(誰方か谷崎作品に技垂れ桜と墓の関連の記述あるのを御教示願えれば幸である)。
 ところで、宣長の戒名は遺言に依れば「高岳院石上道啓居士」であるが、寺の和尚が附けたのは「傳譽英笑道與士」だそうである。一方谷崎のそれは作品に依れば、「予等夫婦ハ二三年前ニ戒名ヲ附ケテ貰ッタ。予ノ戒名ハ琢明院遊觀日聰居士、婆サンノ戒名ハ静皖院妙光日舜大姉デアル。」と記述されているのが、現実の谷崎潤一郎の戒名は墓石の寂の方の背に安楽壽院功誉文林徳潤居士と彫られてあり、松子夫人(昭和62年現在健在)のそれは同じく墓石に無量寿院師譽只林貞松大姉と刻まれている如くであった(彫りが浅いので良く判読出来なかった、潤一郎の方は卒塔婆から確認出来た)。
 なお、法然院の谷崎の墓の右隣りには、福田平八郎、テイ墓という墓石が在るが,これはあの日本画の大家夫妻の墓だろうと思われる。下の方には河上肇・夫人秀墓というのがあるが、これは例の社会哲学者河上肇に間違いない。湖南内藤先生・夫人田口氏墓というのもあるが、これは古代史の大家内藤湖南であろう。島文次郎・夫人乃墓というのもあるが、これ誰の事か……。
 それから「いき」の構造で有名な九鬼周造之墓もあった。ハイデッガーの「ことばについての対話」(手塚富雄訳・ハイデッガー選集21、理想社)の冒頭に、
 日本のある人 九鬼周造とお知り合いですね。数年問、あなたのもとで研究した人です。
 ある問う人 九鬼伯爵のことは、いつも思い出しております。
 日本の人 あまり早く逝くなりました。あの人の師である西田博士がその墓碑銘を書きましたが、その弟子への最高の敬意の表現であるその仕事に、1年以上の時をついやしました。
 問う人 わたしの大きい喜びですが、わたしは九鬼氏の墓と、その墓をめぐる樹苑を撮影した写真を所持しています。
 日本の人 京都にあるその寺をわたしは知っております。 わたしの友人たちも、たびたびわたしといっしょにその墓を訪れました。その庭は、12世紀の終わりに、僧法然によって、当時の帝都だった京都の東寄りの丘の上に、思索と瞑想の場として造営されたのでした。
 問う人 それでは、この寺の樹苑は,早世した彼のためにふさわしい場所ですね。
 日本の人 なんといっても、日本人が「いき」と呼んでいるものを考え抜いた人にふさわしいものです。
 とある。
 因みに、九鬼周造の戒名は「文恭院徹譽周達明心居士」であった。



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