幻の玄蕎麦を求めて
――― あぁ、グランド・ツーリング 宮崎県椎葉村 ―――

 こういうのを言魂(ことだま)と言うのかどうか、厳密な意味では判らないけれど、私にはそう思えてならない。何故なら、それは私の発した言葉に、木霊(こだま)の様に、遠く九州の山中から呼び声が返って来たからである。
 1993年9月号NAVI誌に「ああ、人生、蕎麦ツーリング」という記事を掲載して戴いたのだが、その末尾は「今年の秋、そばの花が咲く頃、笠原弁護士はそば色に塗り直したフェラーリ365GTB/4デイトナで、九州は宮崎県の椎葉村までグランド・ツーリングに出掛けようと考えている。この旅を終えたら、蕎麦の全国行脚に一応の区切りをつけるのだという。ああ人生、蕎麦ツーリング、なのである。」と結ばれて居た。
 宮崎県椎葉村は世間一般には西日本3大秘境(奈良県十津川村と香川県東祖谷山村とをくわえる)の1つとして平家落人伝説とそれが歌になった正調ひえつき節の里として知られる九州山地の山深くに位置する。そこを目指す私の唯一の理由と必要性は、そこにこそ今や日本で唯1ヶ所になって仕舞ったという、伝統的焼畑農業が現在も行なわれて居て(因みに、畑という字は中国製の漢字ではなく、日本製の国字なのであるが、火を燃して田と為すと作字された如く、我国往古の農作は焼畑に始まったのであろうと思われ、従って此之場合には田とは水田を意味するのではなく区画された耕作地の象形文字として利用されたのであろう)、然も、そこで蕎麦が栽培されそれが幻の玄蕎麦と言い囃やされて居るので、世に蕎麦好き、そば通は相当居るけれど、幻の玄蕎麦の地を踏み、そばの花咲く蕎麦畑を見届ける物好きは自分1人であろうと自負し、且つ、日本一の蕎麦畑を訪れるには、その2年前に入手したスポーツ・カーの一方の雄である幻(?)のフェラーリ365GTB/4デイトナの、然も、そば色のもので出向くべきであるという野心から発するものであった。
 私の手に入れたデイトナは1973年製で車台番号はFerrari365GTB4A17081で所謂チエイシス・シリアル・ナンバーは17081ということになる。デイトナのシリアル・ナンバーは最初のプロトタイプ275GTB/4チエイシス、ティーポ243エンヂンのものがナンバー10287とされて以来全て奇数とされて来て、最後の1台のそれは17089であったとされる(キャヴァリーノ誌No.61 1991年2月3月合併号29頁参照)。而して、我がシリアル・ナンバー17081は最終生産の終りから5台目の1台であって、然も、最後の最後の2台はフェラーリ社にリザーブされたとの話なので(某誌ではデイトナのラストシャーシ・ナンバーを17087としているが、これはキャバリーノ誌のラスト・シャーシー・ナンバーからすると1台分少なくなるので、コンシューマー用ラスト・ナンバーとリザーブ用のそれとに分れるとでも考えるべきなのであろうか…、そうだとするとリザーブされたのは1台か?)、となると我車(とは言っても頭金以外ほぼ全額銀行ローンなのでなんだか自分の車という実感はないが…)は一般向けにフェラーリ工場を出たデイトナの最後から3台目か4台目の1台だった事になるのである。これはつまらぬ些事に拘泥する事になるのかも知れないがフェラーリ・デイトナクーペ1260台(純正スパイダー約140台を含まない、前記キャヴァリーノ誌参照)中最末弟の1人の出自を明らかにして置きたいが為に外ならない。
 この製造順位と共に、先の車台番号中の365GTB4Aの末尾Aが何を意味するのかとの問題提起がなされている。それは、デイトナのティーポ251エンヂンの大部分が北米仕様と言われるツイン・チョーク・ウエーバー40DCN21と8.8対1の圧縮比から最高出力352HP/7500r.p.mと最大トルク44.0kg.m/5500r.p.mを発揮させて居たのに対しツイン・チョーク・ウエーバー40DCN20と9.3対1の圧縮比(エンヂン・レスポンスを高める為)のヨーロッパ仕様のものが最初と最後期型にそれぞれ少数あり(最高出力と最大トルクに変化なしとの事である)、これがタイプAと呼ばれ、先の末尾Aがそれを意味すると言うものである。私のデイトナのキャブレーターは後者のDCN20であるが、この21と20の差はスロー・ランニング・ジェットが0.60mm、に対し0.55mm、ガソリンレヴェルが4mmに対し6mmとされる右二点のみであり、これは20の方がガスを濃目に、且つ、空気流量を多くセッティングされていて先の圧縮比と相俊って比較的標高のあるヨーロッパ各地で充分な加速性能を形成するのだそうであるが、キャブレターを後からDCN21から20に変更する事はそう難しくはないそうなので、果して我車がヨーロッパ仕様なのか否か、次に若干考察して見る。
 モデナのフェラーリ工場を出た我車はアメリカ正現ディーラーのルイヂ・キネッティを経由して1974年5月12日メキシコのオーナーの許に渡るのであるが、その時のエヴィデンス(譲渡証)に依ればFERRARI COUPE(USED)とされて居るので、このカッコ内のUSEDとは中古車に外ならないとして、それではルイヂ・キネッティの手許で中古になったのか(新車登録して新古車になったことを含めて)或は中古車としてキネッティの許に来たのかが問題になる。我車を仲介した車屋さん(ディーラー)は前者の考えであって我車はルイヂ・キネッティとメキシコのオーナーのツゥー・オーナーですなどと仲人口を利くのであるが、私は後者であろうと推測する。それは実車を観察して見れば、メーターがマイル表示でなくキロ表示であり、且つ、走行距離が25095!!となって居た事及びリア・サイド・マーカーが無い事に先のDCN20のキャブレーターにタイプAの表示の点を加味して綜合的に判断すればこれはヨーロッパ仕様と言えそうなのである(残るは9.3対1の圧縮比の問題であるが、残念ながら直接チェックの方法がないので、目下、ピストンの項点の形状の相違など目視出来るチェックポイントを調査依頼中である)。而して、この車はモデナに於て1973年悼尾にヨーロッパ仕様のものとして製造されて一旦ヨーロッパで新車登録され、そしてその数ヶ月後にルイヂ・キネッティの許にユーズド・カーとして渡ったと思われるのである(然しながら、先のキャブレーター仕様とエンヂン圧縮比とでヨーロッパ仕様としてのパンチ力ある加速性能を有して居るか否かは、スタンダードなアメリカ仕様と比較・体感出来てないので、何んとも言い兼ねる次第である)。右の様な経緯は1973年から実施されたアメリカのマスキー法(排ガス規制法)を掻い潜ってヨーロッパ仕様車を合法的に持ち込む手段ではなかったかとも憶測される次第なのである。斯くしてヨーロッパ仕様の中古車としてメキシコに渡って約18年間を過した後(これ又些事ながら、カーラヂオ&カセットコーダーはメイド・イン・メキシコのデッカー社のモノが搭載されて居て、日本でも辛うじてAMラヂオとFM側でNHK第1TVの音声だけ受信出来て居る、カセットは不動作)、漸くバブル経済の崩壊が始まった1991年4月私の註文でロサンゼルスと横浜の2つの販売店ルートで成田へ降立ったのである。
 色は赤であった。これで私は暫くの間赤いフェラーリに乗る事になるのであるが、私は赤いフェラーリをあまり好むものではない。
 一般論としても、私は良い車はポルシェでもベンツでも、全てシルバーが似合うと思って居るし(山口百恵に「真赤なポルシェ」というヒット曲があったそうであるが、私は矢張り映画「ル・マン」の冒頭シーンに登場するS・マックイーンのシルバーのポルシェを支持する)、逆にシルバーが似合わない車は良い車ではないとすら思い込んで居るので、この赤いデイトナを見て色を塗り替えてやりたいと思った。然し、その前に折角だから入手早々の赤いデイトナで行くに相応しい所はないかと思い、思わず膝を叩いて1ヶ所だけあるわいと思ったのが、奈良は西の京、薬師寺の裏境内に在る玄奘三蔵院である。薬師寺は法相宗であり、その宗祖は所謂三蔵法師なんだそうであるが、薬師寺が宗祖を崇敬して最近建立したばかりで朱色の門柱・門扉も鮮やかなのでその門前に置いてやるのが赤いデイトナのせめても一番似合う場所と思われたからである。
 そこで、私は成田到着後約4ヶ月程小刻みな整備に時間を費やした後、我デイトナ・ロッソコルサ(現在のフェラーリ用純正色見本でみるとロッソコルサ――競争用赤――にもゲルバーとへルラー2種類があるが、前者の方)の刄先を西に向けたのである。私が此処で西にノーズを向けたと言わない理由は、デイトナの一番優れた流麗な側面デザインが、イメーヂ的に刄を横たえた鋭利なナイフ以外の何物でないと感じて居るからである。もっとも、赤いデイトナのデザイン上一番見劣りのする真正面からの所謂ロング・ノーズの部分の形状は、これは矢張りノーズ(鼻)と言っても良いだろうけれども、それにしても赤いデイトナの此之部分は赤い鼻か赤い舌を出した図で、これは如何にもアメ車っぽい所で、トリノのカロッツエリア・ギア社デザインの大きなテール・フィンを持ったスーパー・アメリカ程ではないにしても、ピニンファリーナのデザイン史上に於ても410スーパー・アメリカや250スパイダー・カリフォルニヤと並んで相当アメリカに摺り寄ったものと言うべきで、私には甚だ戴き兼ねるポイントなのであるが、その外はリアクオータービューも、コーダ・トロンカの御手本である後姿も全く文句の付け様のない完成度を示して居ると思うのである。
 さて、一部欠点はあるにせよ全体的には誠に美しいフォルムのデイトナ・クーペの刄先を西に向けて、空気を、風を切り裂いて突進するデイトナの動的パフォーマンスなのだが、これは残念ながらナイフで画布を切り裂く様な鋭さがなく、又、機械的精密感も感じられないのである。それはまるで斧で空気の壁をブチ破って突進するが如くなのだ。そうだ、このフィーリングはウナリを立てて飛んで来るアパッチかシャイアンのトマ・ホークを正に髣髴(ホウフツ)とさせるではないか…。
 とにかく力に任せて中央道と名神自動車道を轟然と踏破して訪れた薬師寺は相変わらず修学旅行の中学生が多勢来て居たが、裏手の玄奘三蔵院にはその内の1人として訪れる者も無く、車を境内に乗り入れることも容易だったので、悠々と誰に邪魔されることなく新築の廻廊・ガランをバックに赤いデイトナの記念撮影が出来たのであった。
 遠く、シルクロードの果て遥か、イタリアのローマならずしてモデナから、例へ、大西洋、太平洋経由ではあったにしろ、シルクロードの終点とも言われる大和の奈良の都に辿り着くとは、想えば何たる壮大なロマンであるか、お釈迦様でも御存知あるまい、いやさ、エンツォ様には御存知あるめえー!とブチブチ自己満足して帰って来たものである。
 さて、これで遠来のロッソ・コルサにも義理を果した気になって、矢張り赤は具合が悪いので、それでは何色にしようかと考えた時、私は迷わずに直ちにシルバー(色見本でいうargento)にすべきだったのであろう。
 然し、当時の雑誌広告で関西のショップから売りに出されて居たシルバーのデイトナが如何にもバブル経済崩壊を象徴するかの如くウラぶれくたびれた白ちゃけたシルバーだったので、チョット躊躇したのが身の破滅であったのであろうか。いや、それよりも銀行融資に頼ってデイトナに触指を動かしたのが、既に破滅の第一歩だったのであろう。
 それにしても赤が厭ならシルバー以外では何色にすべきであろうか。
 黒いミウラをオレンヂ色に塗替えた人の例を知っている。その人は若い頃明るいオレンヂ色のミウラの写真を見て憧れたのだそうである。私も小・中学生の頃、アイボリー・ホワイトのジャガー・マークUに憧れた事がある。だから、ジャガー・マークUなら今でもアイボリー・ホワイトが至高のものである(内装は赤若しくはサーモンピンク?を望む)。又、実車では72年製ポルシェ911タルガ・トップのシャンペン・ゴールドを大変気に入って5年程乗って居た事がある(内装・黒)。
 然しながら、特に深い思い入れもなく白紙の状態から色を決める事は非常に難しいものである。
 そこで私は、目下、こだわりの対象となって居る蕎麦に関連付けてそば色にしたいと思うに至ったのである。そば色とはどんな色であるか?人に依っては、そば色とはそば屋のそば(麺)の薄茶色をそば色と思って居るかも知れないが、私の言うそば色とは、そばの黒い外皮を剥いで、更に薄い甘皮をむいた蕎麦の実(引きぐるみ)の本体の一番外側の草色の様な薄みどり色を指すのである(そばの葉だってそんな色だが…、然し、イギリス流のリーフ・グリーンとは違うと思う)。特に私は新そばの頃の薄く草色を呈する蕎麦の実の色をイメーヂしてそば色と言いたいのである。
 然し、実はこの私に右の如き明確なイメーヂが確立する前に、若い車好きの友人がデイトナの小さなプラモデルに、見ようによってはそば色と言えなくもない渋い青アヂサイ色(フェラーリの現在の色見本で言うとアッツウロ azzuro 空色、紺色に近い感じ)に彩色し、こんな色ではありませんかと提案して呉れたので、軽率にも!!私はそれでソバ色のイメーヂが実現するものとして、赤いデイトナにそのプラモデルを見本としてくっつけて塗装替えに出して仕舞ったのである。予算を大巾に安く抑える為に、所要日数は全く塗装屋さん委せとしたので、何時仕上るか判らないで居た時に、冒頭のNAVIの記事取材を受けて、その末尾の如き寝言を述べたのであった。
 そこで驚くまい事か、右の記事が載った約3ヶ月後、見ず知らずの件の椎葉村の助役さんから1通のフアックスが飛び込んで来たのである。
 かたはらに秋草の花かたるらく
  ほろびしものはなつかしきかな  牧水
  本日NAVI(九三年九月号)拝見いたしました。先生の「ああ人生蕎麦ツーリング」に心酔いたしFAXするハメとなりました。
 蕎麦の全国行脚の締めくくりにわが椎葉の里を選んで頂き感謝感激です。
 フェラリー(ママ)365GTB愛車でのご来村を一日千秋の思いでお待ち申し上げております。
 蕎麦の花の散らないうちに。
   十月二十二日
                         ひきつえ節の里椎葉
                              宮崎県椎葉村
助役 黒木勝実
笠原克美先生
 確かに取材に対しては、椎葉村にそばの花咲く頃、そば色のデイトナでグランド・ツーリングに出掛けたいとは申上げたのではあったが、この台風の非常に多かった年の蕎麦の出来は米と同じく全国的に不作と言われて居た事もあって、そばの花咲く9月10月には今年は止めようかと、半ば諦めムードでスケヂュールも確保しては居なかったのである。そこへ持って来て、8ヶ月になんなんとする日数を経て仕上って来て居た我デイトナの色は、予想に反して何んとブルー(blue medio 中位のブルー)だったのである(色見本では先のazzurroの一つ上に当たる)。
 何処で何が間違ったのか、塗装上りの車を引取りに出向いた時の私は遠く近くこの車を見て、顔は一瞬真青、心はラプソディー・イン・ブルーの境地に陥入ったのであった。これならば一層紺メタ(blue chiaro 明るいブルー、色見本でazzurroの一つ下)の方が良かったのではないかと思いつつ、それでも日影で見るとブルーは愈々濃く見えるものの、然しながら直射日光の下ではいくらか薄青く輝くので何んとか気も紛れ、なにしろ赤よりはましだからなんとか乗り慣れようとは思ったものの、これでは喜び勇んで九州のそば畑に御対面に赴く元気は出ないで居た所だったのであった。
 そこへ件のファックスである。これでは例えスケジュールが無理であろうと、色がそば色でなかろうと、人生意気に感じて、このファックスに応じて出掛けなければ、若しかしたら2度と往くチャンスは無いかも知れないと思い詰めて、私は直ちに返電した。
 拝復
 思い掛けない熱烈FAXを頂き、誠に嬉しく、感謝、感激です。
 仲を取り持って戴いた奈良役場の方にも感謝申上げます。
 又、島田の薮蕎麦・宮本の方にも御電話下さったそうで、これも有難く存じます。
 なんとなれば、私共は知る人ぞ知る幻の玄蕎麦の産地である椎葉の里には大変な敬意と憧れを抱いて居るので、そこの助役さんから直々に御連絡戴けるとは、正に夢みたいな話ですし、これこそ蕎麦の司の導きであろうかと思った程なのです。
 椎葉の焼畑で栽培された幻の玄蕎麦を私達は本当に大切にしたいと思って居ります。島田の宮本が言う様に、蕎麦の命はそば粉が九割だそうで、これは当り前と言えば当然過ぎる程当り前なのでしょうが、彼の様に日本一のセンスと腕前を持った本物の職人が言うのを聞くと、事の本質が判ってきます。
 私もこの目で幻の玄蕎麦の花を見たいと切望して居ります。今年の全国的天侯の不順で花の時期が掴めず躊躇して居りましたが、黒木助役の貴重なるFAXに刺激されて、一気に飛んで行きたい気持ちになりました。
 週明け早々予定が立つか否かスケヂュール調整とフェリーの予約を試みてみます。
 それでは亦…。
 勿々
 一九九三年一〇月二四日
 笠原克美 拝
宮崎県椎葉村
助役 黒木勝実様
 』
 突然のことでもあり、又、時期的にも、そんなにタップリしたスケヂュールの組めない事は日程表を眺めれば当然のことである。
 こうなれば、空海陸の立体作戦で行くより仕方なかろう。車は川崎20時発のシーコムフェリーに乗せれば日向港には翌日午后3時に着く。身体は全日空宮崎行第1便に乗れば朝8時30分には宮崎空港にランディング出来る。そして、宮崎から日向迄はJR線特急で50分弱である。帰りも同じ事にする。
 問題は日向港で誰にフェリーから車を降ろして貰い(フェリー会社で陸上げはして呉れるが)、且つ、一夜の安全を確保して貰えるか(フェリー会社では陸上げ後の保管はしないのだそうである)、そして帰りにはその逆をして貰えるかである。私のか細い人派は僅かに継がって居た。
 此之度の蕎麦行脚は勿論椎葉が中心目的となるが、どうせ九州へ遠征するからにはその前半に宮崎県南郷村弓弦葉、後半に熊本県久木野村のいずれも玄蕎麦の手配で御世話になって居る3ヶ所を経由したいと計画したのであったが、その第1の目的地の南郷村出身の一ファミリーが日向市に出て来て居て、そこの長男が市役所に動務して居るというのである。渡りに船とはこの事である。往き還りのフェリー載み下ろしは彼に頼める事になった。然し、デイトナのクラッチミートは発進時、特に、坂道発進には微妙な半クラッチを多用しなければならないので、フェリーからの上陸(或はその逆)に際して初めての人にそれをして貰えるかどうか非常に心配だったけれど、「トラックでも運転する気持ちでやって貰えれば大丈夫ですから…」などと電話口で強がりを言いながら心の中では半べそ状態で頼んでしまったのである。
 その様に、私の椎葉行きの道はドンドン開けて行くではないか。これがヒョウタンからフェラーリ(駒)、嘘から出た真実(まこと)、言霊に対する木霊、木霊に対する谺でなくて何んであろうか。
 1993年10月30日午前6時55分私は同行者1人と共に羽田発宮崎行全日空601便の機上の人となったのであった。
 1日目は午前中に南郷村は弓弦葉のそば畑を見て、その後椎葉に向う予定を立て、現地での足となる♯17081フェラーリ365GTB/4デイトナ・ブルーメディオは中1日前の28日の夜川崎港から乗船させてあったので既に日向港で陸上げされて居る筈である。
 ほぼ定刻通り午前8時半に到着した宮崎空港からはタクシーで南国らしい蘇鉄の街路樹を窓外に見て、1区間だけの高速道路を急がせたら、旨い具合に9時20分発JR・L特急にちりん26号に接続出来た。乗車する事小一時間。日向市駅着。
 駅近くの御宅の車庫部分に納められて居たデイトナを丁重なる御礼を申上げて引取り、記念の為にとフェリー発着場を一目みて此処をスタート点として、直ちに国道10号線を右折して国道327号線に入り目指す南郷村へ向かったのである。
 国道327号線が大きな川沿いに暫く進んだ所で左の方へ国道446号線に進路を転ずると、思い掛けぬことに椎葉村助役がそのFAX中に引用して居た詩人若山牧水の生家と記念館があったので、詩心(うたごころ)なき身ではあっても旅の空の下、小休止を兼ねて立寄って見た。
 ―――たった二日我慢して居しこの酒の、この旨さはと胸暗ろうなる―――と歌ったアル中詩人も、20才の頃には、
 ―――幾山河越へさり行かば、悲しみの果てなん國ぞ、今日も旅行く―――と純情可憐であった事を知った。
 川沿いの道を更に上って行くと山は次第に襞を重ね、道も狭まって来たが、九州の空は明るいので、快適なカントリー・ドライブを楽しんで居る内に、昼前には南郷村役場に着いた。丸味を帯びたデザインの大きな新築の村役場は、人口3阡人の村の器にしては立派過ぎる様にも思えたが、バブル期の日本国家の税収の余慶が補助金行政の形で、良い意味で此処にも結実したかと素人財政評論をしながら、企画観光課を訪れた。
 名刺交換をすると、なんと漢字表記の隣りにはハングル文字が併記してあるではないか…。そう言えば、町中の看板類にも全て同じくハングル文字が併記されて居たのも同じ事だったのだ。
 南郷村は、弓弦葉の玄蕎麦にしか関心の接点の無かった私には意外であっても、村を挙げて百済の里づくりに取り組んで居るのであった。それは西暦660年の百済滅亡時大和に逃れて来た百済王が、壬申の乱の為再び都落ちして日向に漂着して山奥に入りこの地に没し、その霊と遺品を神門(みかど)神社に祀って来た所、近年に至り遺品中の銅鏡が正倉院御物と同一製のものと判明したのを契機に、これを村おこしの起爆剤とすべく、この遺品を保管・展示する為に宮内庁所蔵「正倉院図」を借り出し、800本の木曽桧を調達し奈良東大寺の正倉院と全く同寸・同大の規模で「西の正倉院」なる建造物を建立せんとして居るのである。壮大な歴史ロマンだ。
 大きな礎石の置かれた建築現場と神門神社を拝見して、漸やく遅目の昼食を村役場下のそば店「神門そば」で摂り(もりそばがなく、鶏肉入りの温い汁そばであった)、そして勇躍弓弦葉へ向ったのであった。
 弓弦葉のそば畑はバス停から細い急な坂路(デイトナ向きではない)を少し上った数戸の集落の中心に在る休耕田であった。そばは小さな白い可憐な花を咲かせて居た。これこそ我等が宮崎県弓弦葉の玄蕎麦と有難く戴いて居た正にその母なる玄そば畑なのだ。衝き上げる感動という程強いものは感じなかったが、白いそばの花を吹き渡る微風に包まれて、泌々と、そして深々と、此処があの弓弦葉なのだと静かな満足に浸ったのである。近くの牛小屋から白黒のブチの牛が顔を出して、結構な声でモーウッと鳴いたりした。あぁ、弓弦葉よ、それにしても遥々来つるものかな、であった。
 さぁ、それでは愈々本命の椎葉に出発しよう。バス路線も既に弓弦葉のほんの少し先で終わり、その先からは私の持つ地図には記載のない「桑木原林道」を上椎葉に向ったのであった。地図にない林道ではあるが砂利道ではなく全線舗装済みである。行き交う車は少なかった。
 或るゆるい下りカーブで、珍しくも対向車が現れたと思った瞬間、相手はユックリこちらに近付いて来るではないか。こちらのドライヴァーは目一杯左路肩に寄せたにも拘わらず、相手は青いデイトナに魅いられでもしたかの様にセンターを越えて更にこちらに近付いて来るのである。助手席の私と相手運転手の目が合ったのに、相手はハンドルを戻そうともせず、その侭接触事故となってしまったのである。何と馬鹿げた白昼夢であろうか、又、旅行初日から何んたる不愉快な事であるか。
 此之山中の出来事も、人身事故ではないにしても後日の法的処理(保険請求の為の事故証明)の為には警察に届け出なければならないので、私は車を降りて現場に残る事にして、哀れ右目を森の石松の如く潰されたデイトナは急拠椎葉村の警察か駐在所、将又、K助役の村役場へ連絡に向かったのであった。延々と待つ事1時間以上、その間私は何故対向車のドライヴァーがセンターを越えて迄こちらに擦り寄って来たのかを、繰り返し々々対向車の事故前の走行路を辿って見て、私なりに対向車が上り右カーブの事故現場に登って来ると道路巾が扁平して見えて早目にアウト・イン・アウトのコースを取ろうとした為にカーブの手前で道路センターを越えてまでこちらの車両にブッツカッて来たのだと推論した次第である。そんな事で手持無沙汰な時間を潰して本当に無聊な気持で居ると、遠く峠の下の方からクオーン々々と少しばかり悲し気な声を響かせながら傷付いた青いデイトナが戻って来た。ヴオータンならずして山の上から見下ろすその姿には戦場で傷付いた英雄ジークフリートの威厳はなかった。それは戦場での英雄的な戦いで傷付いたのではなく、恰もハーゲンの奸計に陥ち背中の急所に不意打ちを受けたかの如くだったからであろう。その後暫くして、助役と新聞社のカメラマン更にその後から若い警察官がおっとり刀で馳け付けて呉れたのであった。カメラマンは我々の椎葉玄蕎麦の旅を取材する為に待ち受けて居て呉れたのであろうか、又、警察官は新婚の奥さんの両親が来訪して水入らずの歓迎会をやって居たので遅くなったとの事でいずれにしろ各人各様とんだ事になったのであった(助役はレッカー車の手配をしてから駆け付けて呉れたのである)。
 実況見分をして見ると相手は1m強センター・オーヴァをして居る事が判明したのでこれを記録に残し、幸にも人身事故ではなかったので、相手の車の右前輪がバーストしていたのを、当方が御手伝してそのタイヤ交換をして、そこでやっとの事で解散となったのである(事故の後日談としては、当方の過失ゼロ、相手方100%で相手方加入の農協共済と保険示談が出来たが、斯る過失相殺無しの解決はレア・ケースには違いないにしても当方の名誉回復の為には是非必要だった事である)。
 明るい九州の山地とは言え奥山の日暮れは早く、助役に案内されて椎葉村へ向って下って行った時には正に日はとっぷり暮れて、早くも夕餉の時間も過ぎかかって居た程である。然し、このロスタイムより、矢張り自走出来る程度とは言え、右目損傷のクラッシュが本当に痛いものであった。それにしても、矢張り左右のロード・ランプと左ヘッドランプの三ツ目小僧状態で、夜間走行も出来たのは正に不幸中の幸であったと言うべきであろう。
 さて、椎葉村の中心部を通り越して、更に下って行った右手に既に店を閉めて仕舞った酒屋があったのを、助役は何かブチブチと、「こんな早く閉めて良いのかな」とかなんとか言いながら、店の人に掛合ったのかどうか―――店は鍵なんか締めてない風であった―――、「これは当地の銘産だから」と言って1本の稗焼酎(ひえじょうちゅう)、その名も「椎葉」を早手廻わしの土産にと手渡して下さったのであった(余談だが、宮崎県の焼酎では高鍋町の合資会社黒木本店の大麦製長期貯蔵酒「百年の孤独」40度が抜群で中国の銘酒芽台に比敵する程である)。そして、この酒屋の脇の細い短い急坂を下るとこの日の宿でもあり、且つ、幻の玄蕎麦、焼畑農法に依る玄蕎麦作りをして居る荒竹さん方の民宿「新地」なのである。その晩早速そば粉100%の田舎そばとそば掻きを食べさせて貰ったのだが、これは残念ながら駄目であった。幾等原料が良くても、それだけで旨いそばになるものではないという単純なことを再確認させられた次第である。この晩のご馳走は何んと言っても野性の熊のヂンギスカン焼肉であった。肉は少々堅かったが、喰みしめれば滋味あふれる山里の珍味であった。それともう1つは竹の子ずしといって、柔らかな真竹の竹ノ子の筒状の中に五目ずしを詰め込んで、これを竹の子ごとガブリと食べるのであるが、これ又野趣溢れる珍味であった(荒竹さん方の色んな食物は後日NHKの料理の時間でフル放映されて居た)。
 この晩椎葉の山里深く、上椎葉ダムから下へ3ツ目の塚原ダム湖を前にした宿の眠りは静かで安眠出来たかというと、想像と現実とは丸で違うもので、釣り名人でもある荒竹さんが釣り上げた大物の鯉(過去最大17kgオスと15kgメス)を放してある生簀にドウドウと落し込む引水の水音で、どうも一晩まんじりともしなかったのであった(こんな例は、静かだと思って行った海辺の温泉で一晩中波の音で眠れない等の経験と同じ類いだが、些か興醒めではあった)。
 夜が白々明けて来た様だと思った時、外に車の音と人の話声が聞こえた。鹿児島の方からこのダム湖に日本一クラスの大物鯉やヘラ(荒竹さんの記録は53.5cm、3kg)を狙って釣行して来たアングラー(釣人)だという。
 雨が少し降っていた。
 前の晩熊の焼肉で深酒した為、朝飯はゆっくりしたものになった。それに森の石松を正視するのも気後れしたのか、人間の方のエンヂンが仲々掛らなかった。
 然し、私は此処(あぁ、正に此処)椎葉の焼畑の蕎麦畑を一目見に来たのではないか。さぁ、出発だ!!先導は荒竹さん父子が乗るホンダの軽4・4WDアクティである。バイロット・フィッシュに導かれた甚兵衛ザメの如くデイトナはやおら塚原ダム湖を渡る橋の上に姿を現わしたのである。橋を渡り終えるや直ちに稲光り型ジグザグ山道の登攀開始である。ホンダ・アクティはカタカタスイスイと誠にアクティヴに登って行くのであった。図体の大きいデイトナはジグザグの鋭角バックを廻り切れないで、左上に登るべき所を右下へ一旦下り、然るべき所でUターンして軽4を追ったりしたものである。私は此之時泌々と軽四の四駆は日本の国勢・国土にすこぶる役立って居ると感服した次第である(他面デイトナなんか何んの役にも立って居ない事を痛感するのであった…、因みに、ホンダ・アクティは平成6年からはゴム製キャタピラー装備のクローラなる泥田の中でも走れる凄い車種を追加している)。然しながら、その時私は無性にポルシェ911カレラ4で来て居たらどんなに良かったであろうかと思って居たのである。
 ダム湖はどんどん下に遠ざかり、その内見えなくなった。1山、2山、そして3山越えといった頃、軽4を止めた荒竹さんが車から下りて来て、「あそこですな」と彼方の山の中腹を指すのであった。そこは杉の植林地帯の片斜面を伐採した跡地に緑色をした作物畑となっている風ではあったが、それがそば畑かどうか迄は判らなかった。
 その畑に辿り着く迄はもう一登り登らねばならなかったのである。畑の上の道で車を下り、眼下のそば畑を見下ろす。そばが手前からズッと下の目の届かぬ当り迄斜面の山肌その侭に一面に約1.5へクータールも植えられて居るのであった。そして、その遥か下の方に銀色に細く川が筋を引いていて、山合からは雲が湧いて出て居るではないか。あぁ、椎葉のそば畑は雲の上の畑だったのである。遥々来たぜ―――箱館へ―――、逆巻く波を乗り越えて―――、という演歌が胸中鳴り響く思いであったが、箱館山の頂―――でという一節とは全然スケール感が違うわいと思いながら、荒竹さんに続いて道路下の畑にズリ落ちる様に入って行った。畑の土は柔らかく深かったので、足がズブズブと埋まって仕舞う。その御陰でドライビング・シューズ代わりに愛用しているハッシュ・パピーの革メッシュの網み目が焼畑の焼灰で黒くなった泥でスッカリ詰まってしまい、これも都会的に言うと大ダメーヂを蒙って仕舞った。荒竹さんはゴム長靴に作業ズボンであるから、何んの痛痒もなく、誠に機能的に畑の中へ入って行くのである。都会人も都会車も生産の現場では丸で役立たずなのだ。
 しおれたそばの花を付けて黒い小さなそばの実が幾粒かずつ稔って居た(そばの花はこの様な結実状態でも散らないのだそうである)。そばの実が小さいのは親の代からの種を播き続けて居るので小さくなって仕舞うのだそうだ。いずれにしろ可憐なものである。3へクタールで約1500キロの収穫になるそうだが、これが都会に出て繊細なそばになるのかと思うと、一種のマイ・フェアレディと言うことになろうか。
 焼畑は輪作でもあるそうで、1年目そば、2年目ひえ、3年目小豆を作ると、そこの畑は早くも2年目に植えられた杉の苗だけの杉林の斜面へとなって行くのだが、右の畑作をした方が杉の育ちが良いので、植林家は無償で焼畑・輪作をさせて呉れるのだそうである。駐車場でも家庭菜園でも何んでも有料という都会に対する又してもアンチ・テーゼである。従って、その様にして、荒竹さんの焼畑式そば畑は毎年転々と所をかえて耕作されて居るのである。
 そば畑の一部に大根が植えられて在ったのを数本抜いて、これは旨いから東京へのみやげにしなさいと呉れたので、ビニール袋に入れてデイトナの小さなトランクに納めた。
 少しの大根しか背負えぬ青いデイトナはエンヂンの排気音だけは不必要に野太とくブォッ、ブォッと山を下った。幻の玄蕎麦畑を一目見れば、今回の椎葉詣は全て完了であった。
 再び塚原湖の橋の上に戻った我々は荒竹さん父子に別れを告げ、今度は第3の目的地としての熊本県阿蘇郡久木野村「手打ちそば道場」へ向った。椎葉から川沿いに少し下った所から左折し国道265号線をウネ々と北上する事2時間ばかりで青空のすっかり拡がった雄大な阿蘇の外輪山の内側に至り、360度パノラマの様な景観に心を奪われながら外輪山に沿って左へ向い白水村から南阿蘇鉄道の踏切を越えれば久木野村「そば道場」は難なく見附ける事が出来る。
 後日偶然に久木野村々長がTV番組で語って居るのを見たが、村長曰くには、村長の最大、且つ、最重要な役目は地方交付金という財源(カネ)を中央政府から引き出して来る事だそうである。観光客相手に村営のそば屋を開いても一銭の補助金(交付金)も出ないので、少し工夫して「そば研修センター」と「そば資料館」という農業研修施設の格好を取って、然しそれでは観光客がにげてしまう恐れがあるので、「手打ちそば道場」と名打って観光客を集めて村の女性方が手取り足取りでそばの打ち方・切り方を教え、出来たそばを調理場でゆでて、さらしてその食に供するというものである。この村長の事であるから、当然、研修を受けなく共(自分で教わりながらそばを打たなく共)、ただ食べるだけのそばの注文にも応じて居たので、私共は旅を急いでいる事もあり、此処でも食べるだけのそばを注文して阿蘇5岳の大眺望を眼前に遅い昼食とした次第である。私がこの久木野村「そば道場」へ寄ったのは、必ずしもそばを食べるのが目的ではなく、矢張り知人のルートで此処から島田の藪蕎麦に毎年玄蕎麦を手配して貰って居るので、この礼を兼ねて一度表敬訪問をして置きたかったからである。御挨拶すべき研修所長(そば道場長)はそれこそ何かの研修で不在だったので、私は東京・新宿から持参した花園万頭の濡れ甘納豆の小さい折りをそば切符売り場(そば研修受付?)の女性に託して辞去したのである。
 その後は、白水村から阿蘇中岳に上がり、噴火口を窺き、阿蘇一の宮に下って給油し、やまなみハイウエイを快調に飛ばし、遂に明るく暮れて行く九州の雄大な内懐を抜け、由布岳のシルエットの下を過ぎ、夜の都会の輝きを放つ別府の街と別府湾を眼下にしたのであった。 別府鉄輪(かんなわ)温泉の行きづりの宿も別府港と別府湾を見下ろせる部屋で、それなりに寛げ、湯もまぁ々、海の幸もマァ々であった。翌朝の屋上の朝日を強烈に浴びての露天風呂(造りは子供用プールといったもの)も強く印象に残って、もう一度行っても良い位である。
 最終日は、国道10号線を海岸沿いに下り、大分市鶴崎の知人(その人が東京で大学生々活を送った時我家に下宿して居た人)宅に寄って、予て一見して置きたいと思って居た臼杵の石仏を案内して貰い(あの有名な首が地上に落ちた大日如来座像が市民の賛否両論の末だそうだが元通り胴上に復元されて居た)、後は一目散に日向に下ったのあった。
 11月1日の夕方、傷付いたブルー・メディオのデイトナを日向港近くはフェリー積み下ろし依頼先に置いて、全日空夕方便で早目に東京に戻ったのであった。
 そば行脚自体は思ったより充実したものになったが、矢張り車の傷は我身の傷付いたのと同じ傷みを感じさせるものであった。傷心の癒えぬ侭12月に入り漸やく椎葉からの玄蕎麦が島田の薮蕎麦「宮本」に届いたのに気を取り直して正真正銘の新蕎麦でそば会を持つ事にした。出席者は主客としてF美術館の館長夫妻、その他飛行船パイロット、ディアブロの愛好家等々多士多彩であった。私はプラス2で出掛けた。このシングルカムの12気筒は軽く粛々と廻わるメカニカル音と矢張り軽く張った排気音で、ダブルカムのデイトナのそれとは別の世界を形成し相侵さざるものだと感じて居る。このそば会は少し早めの年越しそばでもあったのだが、矢張り並の新そばではなく、素朴にして洗練の極致を示す見事なものであったので、一同感嘆の面持しきりであった。その日も一期一会の宴であったと、今にして痛感される次第である。
 それにしても私はあの事故の翌日以来、約6ヶ月間デイトナとは御別れであった。日向港から川崎港に戻ったデイトナはその侭修理工場に直行して居たからであるが、今回の修理を契機として、せめて色だけは自分の好みの色に到達しなければ腹の虫が治まらぬと言う再挑戦の必要もあったからである(人生は七転び八起きであり、転んでもただでは起きないのである)。
 そこで、件のそば色である。現在のフェラーリの純正色見本帖で見ると、なんだかヴェルデ・テーニュエ(薄緑)が良い様であったので、少し大きいものに試し塗りをしてもらったのだが、どうも十分の手応えが得られなかった。それで、色見本帖の1つ下のヴェルデ(緑)と比較して見ると、ヴェルデの方が当然濃い目であって、全体像を想像してみるに、こちらの方が全体に締まって良いのではないかと判断された。ヴェルデ・テーニュエも悪くはないが、色の薄い分だけデイトナを締まりなく、ブヨーンと水肥れさせてしまう恐れが感じられたのである。
 そんな風に車の色ばかりを色々と考えて居た或る日、TVの大相撲ダイヂェストで御茶の間観戦をして居て、思わずこれは何んだと思ったのが、力士のマワシ(褌)の色であった。彼等のマワシの色は何んと、皆んなそれぞれに車の立派なボディ・カラーになって居たのである。否、むしろ、逆に、車の良いボディ・カラーをその侭マワシの色に採用して居るのである。
 私が今度こそはと選んだヴェルデは貴の花や琴綿のそれと同色である。武蔵丸はブルー・メディオであり、貴の浪は紫紺、智の花はナス紺、武双山はガン・メタ、舞の海は紺メタ、大祥鳳はゴールド・メタ等々である。これは一種驚きである(マワシの色がこんなに多彩になったのは何時の頃からであろうか?春日野理事長の頃は黒一色ではなかったであろうか…)。矢張り、ヨーロッパの古い文化と日本の古い文化には色彩感覚で一致するものがあるのであろうか。今度、歌舞伎を観に行ったら歌舞伎にも共通の色彩感覚があるのではないか注意して見ようと思った次第である。
 年が替わって、春の桜前線も通過して行き、新緑も爽やかながら色を濃く重く仕始めた4月下旬はゴールデン・ウィークの直前になって、やっと約6ヶ月振りにデイトナの全快退院の知らせがあった。
 私は又しても一抹の不安に付き纏われながら修理工場へ向ったのであった。然し、今回は杞憂であったか、工場内にコーダ・トロンカの後部をコチラに向けて停められて在った我がデイトナ・ヴェルデは、ウーンこれかと思わせるものがあった。直射日光を受けるリア・エンドからトランク・リツドの具合は薄緑で、且つ、ためつすがめつ眺める角度に依り、メタリックが良く利いて種々玉虫色に複雑な反射をして呉れて、今後が何かと楽しめそうな期待を持たせるものであった。ボディ中央からフロント・ノーズの直射日光の当たらぬ部分は間接光と工場内の電気の光のミックス状態で見ると正に緑色で、それはソバ色とも言えるが、もっと端的には抹茶色と言った方が早いかも知れない、そんな色であった。15分から20分程見ていて大よそ気に入ったと気持ちを納得させ得た次第である。因みに、フェラーリと言えば圧倒的に赤が多いのであるが、CG94年3月号の「フェラーリの肝っ玉かあさん、おおいに語る」157頁に依れば、フェラーリの市販1号車は全てグリーンに塗られてオランダのベルンハルト殿下の許に納車されて居るのだそうである。又、フェラーリ・ワールド誌90年第7号30、31頁に依ればクレイ・レガッツオーニもヴェルデ色―――説明文に依ればペール・グリーン―――のデイトナに乗って居たのがカラー写真入りで紹介されて居て、彼の車は内装・黒であり、良く見るとステアリングの内側にもう1つ小径のハンドルがあって、これはF1レースでクラッシュした為利かなくなった彼の右足を補完する手動のアクセルと推測されるものである。右の如く、私のそば色デイトナは必ずしも私の頑迷なるそば趣味に狭く限定されるものではなく、広く世界のフェラリスタの御気に入りである事を知り、或る意味では心強く思った反面、唯我独尊が崩れて残念な気もしないではない心況に在る次第なのである。
 然しである、いずれにしろその様に外装がヴェルデで良しとなると好事魔多しとでも言うべきか、何かが不満に感じられるのであった。外装をこれで良しとするならば、内装が今の侭の黒では相当ミス・マッチと言わねば成らなくなるのだ(内装黒のレガッツオーニはその後外装を赤にした様である)。暫くアレコレと考えた結果これに合うのはタンしかないであろうという思いが強まった。私は今迄は内装のタンを積極的に良いと思った事がなかったが、此処に於て初めてタンの存在する必然性を知ったのである。出来れば内装をタンにしてやろう、然も、シート部分はタンと茶のツー・トンが最適であろうと思ったのである。
 それは別として連休明けに、そば色になって初めての長距離走行として、今年になって初めてのそば会兼島田のコレクターY氏宅に275GTB4を見るドライヴィングを計画した。
 天気も好かったし、参加した400iや348、或はロータスとコンボイを組んだり、追い越し競争をやりながら約400キロメートルを相当本気で、東名でも3速以上は使わずにエンヂン回転数をタコメーターの右側に保持して瞬間々々は6800から7700回転のイエローゾーンに踏み上げて走って居ると、帰りの御殿場以降なんだか相当にエンヂンが軽く廻り出し、それにつれ加・減速の反応も当然にキビ々し出し、延いてはフット・ワークまで軽快になって来たのを感じるに至った。これは例のエンヂン圧締比9.3対1の問題を含んで居る事ではあるが、少なく共、所謂、シリンダーやエンヂン・ヘッド、或はキャブレータのカーボン落とし(スス払い)が為されたらしいのである。
 これならば、トマ・ホークではなく、かと言って外科医の手術用メスの鋭さとは言わない迄も、どうやら、ボディ・フォルムのナイフに似た切れ味が期待出来るではないか。あぁ、それならば、更なるそれに向けての調教と研磨のドライヴ行を、私はふただび長駆椎葉の焼き畑に、前回の完成感を欠いた蕎麦行脚の追完版として実現したいと思ったのである(911カレラ4で行きたかったのではなかったのか…?)。
 その時こそは、外装はヴェルデ、内装タンを主体としてシートの背当り部分は茶でダンダラ模様を施し、シート全体の縁取りは同じく茶でパイピングではなくステッチ模様にした何ともオシャレ車のそれでなければならないであろう。
以 上
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