小説「男と女の諸問題」(手切金)
源氏平太

(1)
 「人間と動物とでは、それぞれに大変なエネルギーを傾注して大恋愛をするという点では全く同じであるが、然し、大いに違って居るのは、その恋愛関係の解消に付いて、動物はこれには、全く、何んのエネルギーも必要としないのに、人間は屡々この別れの問題に誠に多大なるエネルギーを消耗しなければならない事である。」
 京都・淳天女子大学教授後田春樹が人並に目下最大限に頭を悩ませて居るのが、この問題である。
 彼の研究室に一人の男が「関西政治・経済指標研究会常務理事鴨川流一」なる名刺を通して来たのが、新学期も始ったばかりのつい数日程前の事であった。
 男は氏家佐和子の叔父であり、名刺の肩書で政治活動をして居ると名乗った上で切り出した。
 「先生ともあろう御方が、私の可愛い姪っ子の佐和子に目を御掛け下さったのは、私共に取っては名誉と言って良い位のものです。死んだ兄貴が何と言うか判らないにしても…。それにしてもですね、比之度の先生の遣り方には、少しばかり終りの美学が欠けて居るんじゃありませんでしょうか。」
 男は特に事を急いでいる様子でもなく、応接椅子に深く座って、自分の目の前に手の掌を組み合せ、殆どそれに向って喋り掛けるかのスタイルで、そんな事を言い出したのである。
 「あなた、ですね。初めて御会いするあなたから、いきなり終わりの美学と言われても、私は困ります。永年教師をやって居て何年かに一度出来の良い教え子に出会えば、私としても、立派な、一人前の研究者に育てたいと熱心な指導をしたくなります。即ち、君子に三楽ありの三番目の、天下の英才を教育する喜びでしてね、これは…。彼女は有能で、又、良く努力もするので、その研究論文に僅かの手を加えるだけで立派な論文に仕上がります。もっとも、殆ど共同執筆と言った方が良いかと思われる位のもので、名を譲ったのもありますが、これは私の全くの善意からです。この学問的感情に、彼女の初々しい美しさが添加された場合、この師弟愛の美的完成は最早必然でしょう。この時、あなたを含めて、誰の介在もありませんでした。此処には自由な主体の、自由なる意思のみがあったのです。ですから、この関係が終わった今、同じく誰の介在も必要ではないのです。御引取り願いましょうか…。」
と教授は相手の眼を覗き込む様にして、物静かに応対した。「先生、初めの美学ではなく、終わりの美学ですよ。終り佳ければ、全て良しで、終わりの方が遥かに大事なんじゃないですか。佐和子は泣いてるんですよ。死ぬなんて事も言ってます。こんな状態が美である訳がない。醜悪ですよ。」
 「あなたは、私にどうしろと言うんですか。彼女の状態が醜悪だとしても、私の方は別に醜悪ではありませんからね。」
 「先生も野暮な事を言いますね。理由は何であれ、男は女を泣かしちゃ御仕舞いだと言う事ですよ。先生も大学教授なら、とうに御判りの様に、アランの幸福論にもある様に、泣いている子をニッコリさせるには、心の痛みを取り除いてやるか、さもなくば庶民的智恵のアメ玉ですよ。ア・メ・ダ・マ」「先生は、今、佐和子以上の子に出逢ってそちらの才能の育成に熱中しちやって居る訳だから、一度に両手に花、二輪のバラを同時には丹精出来ないと言う事でしょう。だとすれば、本質的解決は、覆水盆に返らずで、これは無理だ。そうなりゃアメ玉しかないんじゃないですか。」
 男は、そう言い置いて、又返事を聞きに来ると、割合短時間で帰って行った。

(2)
 後田教授は、高校以来の友人で京都大学法学部を経て大阪で開業して居る葵弁護士を、先斗町の御茶屋に呼び出した。
 「やあ、久し振りだな。安月給の大学の先生に一席設けて貰うなんてアベコべの様な気がするが、やっぱり京都は佳い。たまには鴨川の流れを目の前にして一杯飲るのは命の洗濯だな。それにしても、向う岸の壁は醜いもんになったもんだ。京阪三條駅を地下化したからといって、河岸なんだからコンクリートの剥き出しではなく、もうすこし樹を植えるとか、何とかならんのかね。それに、こちら側だって、緑の遊歩道にして、若い恋人たちに優しくしてやるべきだな。そうでないと夏場になると、御茶屋に呼ばれた芸妓が彼等の事を、アッ、今手を握りましただの、抱き締めただの実況解説などして、可妄想なんだ。」
 「確かに、此処らから見る鴨川の景観は台なしになったが、それだけでなく、昨今の京都は平安遷都1200年記念を3年後に控え、その目玉としての京都駅の高層化計画や、京都ホテルの高層化、更には東京、大阪のマンション業者の建築ラッシュでもう末期症状さ。マンションもロケーションを考えて呉れなければもう市内からは大文字の送り火も見えなくなってるんだ。それに連れて人間関係もガサツになってね。ところで、久しぶりに一席設けたが、今夜は舞妓さん抜きで、ちょっと相談に乗って貰いたいと思ってね。実は、この名刺の男に無理を言われて困ってるんだが、どんな男か知らんかね。」
と後田教授は先日受取った名刺をテーブルの上に置いた。
 窓の外の鴨川周辺の景色を頻りに眺めて居た葵弁護士が席に戻りこれに視線を走らせ、ニヤリとして言った。
 「これは大した男じゃないが、知ってはいる。広域暴力団の山頭組がバックだと称して、時に右翼、時に同和を標榜する事件屋だよ。本名は別にあるけどね。女性問題でゆすられてるのか?」
 「弁護士の直感には参るが、実はそうなんだ、男女の仲の終りの美学が欠けているなどとけしからん事を言って、手切金の要求なんだ。男女の出会いのそもそもの初めに出会金なんてありゃしないのに、終わりに手切金なんてものが、どうして要るのかね。」
 「まっ、そう初心は言うな。世間的にはどうも仕方がない様だな。相手が水商売関係なら、一本立ちしてもっと良い旦那を見つけろ、それ迄の生活費位は援助するからとの一時金なんだろうな。素人なら、それで真面目な所へ嫁に行けなくなったと言う意味での慰謝料かな…。そして問題は、大学教授と教え子の場合は、大学教授の社会的地位だよ。これがスキャンダル化した場合、君は学枚を辞めなければならないんじゃないかな。その辺りどうかな。」
 「うん、俺んとこはミッション系の女子大だから、それは大変だ。最近は随分自由になっては来たが、教授会はともかく、理事会では大問題だろうな。頑張れば、辞めなく共済むだろうが、相当居づらくはなるだろう。」
 「それに、相手が若し狂言にも、先生に乱暴されました等と言い出したら、以前東京の青学であった様に、仲々密室の内の二人の出来事だから、反論が難しいという事もあるだろう。まッ、それはないにしても、矢張りスキャンダル予防の為の手切金が必要かも知れんな。」
 「相場はどれ位だ。」
 「相場はない様なものだが、多少はある。これも少し古い話だが、東京高検の検事が銀座の女性と別れる時に1千万円請求された事があるのを知ってるだろう。その時は日大同期だか後輩だかの弁護士が交渉に当り、金は医学部進学塾の経営者が出して、結局半分の500万円に値切って払ったそうだ。然し、これが医学部のインチキ裏口入学事件から端を発っし、結局、手切金の方も世間に暴露され、検事も辞めざるを得なくなったけどね。あの時我々弁護士の間で笑い話になったのは、検事の手切金が500万円なら、裁判官なら幾等だというので、裁判官なら検事の倍の1千万円か2千万円だろう。そんなら弁護士はどうだと言うので、弁護士ならナシだと言う事になった。要するに、失なうべき地位の高さに比例すると言う訳で、弁護士は失なうべき程の高い地位なんてないという結論だったな。だから女子大の先生は、そうは行かん。私立大だけれど、君の場合はミッション系で、然かも東の聖心、西の淳天と言われてるんだし、偏差値も少しはこっちが上だから、まっ、裁判官程ではなく共検事並と言う所かな。」
 「冗談じゃないよ。手切金に偏差値はないだろう。」
 「まあ、偏差値はないにしても、今回のバブル経済の影響で世間一般の手切金の額も吊り上がってるだろうが、それこそ大学教授にバブル経済は関係ないだろうし、よし、いずれにしても必要ならこの件の交渉は私が引受けるから、今度この男からコンタクトがあったら、私の事務所に来る様に言って呉れ。上手く解決して見せるさ。が、それにしてもこんな事は興醒めの話だ。折角のたん熊から届いたスッポン鍋も冷えちまったが、これを平げて、二次会は四条縄手の俺の知ってる店で飲み直そう。かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を白川のながるる、だ。今日は鴨川よりも白川と行こう。」
と葵弁護士は友人を多少気の毒そうに見やりつつ、そう言った。

(3)
 京都駅の南に在る東寺の境内は、4月21日の弘法大師空海誕生の縁日には露店がズラリと並んで、古着に古道具、植木、京野菜、陶器などを賑やかに商って居るが、拝観料を払って入る金堂、五重の塔の辺りは、観光客が疎らに居るだけで、静かであった。
 後田教授は、その大きな日本一高い五重の塔を見上げながら、古来から永遠に存在し続けるかと思われるこの五重の塔すら、実は一度焼失したものを江戸・寛永期に再建したものであるし、又、東寺と対称的に建立された西寺は滅失した儘である。同じく奈良・平城京でも東大寺は今以って健在であるが西大寺は失われた儘、近鉄の駅名にその名を残すだけであり、薬師寺の有名な東塔は残ったが西塔は失われて久しかったが数年前何百年ぶりにか復興されたことなどに思いを巡らせて居た。何故対のものは片方が滅びる運命にあるのだろうか、それも何故西の方が滅び易いのか。それともこれは単なる偶然の結果に過ぎないのか。これは男女に当嵌めれば、西とは男の方なのか、それとも女の方なのだろうか。これには法則性があるのか、否か。こんな断辺的想念に囚われて居た後田教授は、背後の玉砂利に潜められた足音を聞いて振り返った。
 そこには佐和子が和服姿で、胸許に西陣織のバックをしっかりと抱え、瞳を真直ぐ教授の瞳に向け立って居た。
 「矢張り、来て呉れたね。我々が個人的に大学の外で初めて会ったのも、私の誕生日でもある御大師さんの日のこの寺の境内だった。我々の終りに付いて話合うのに相応しいかどうか問題だが、何か因縁を感じて、来て貰ったんだ。それにしても、あの日もそうだったが五重の塔には和服姿が佳く似合うものだ…。富士には月見草が良く似合うように…。」と教授は言ったが、佐和子は何も答えなかった。挨拶も省略であった。「ところで、先日の男の話だが、若し、それを君が望むなら、私の友人の葵弁護士が交渉を引受けて呉れた。それにしても、あの男のセリフではないが我々の終りの美学に手切金は醜悪じゃないか。」
とやや顔を赭めて教授は言った。佐和子はここで口を開いた。
 「先生、そうではないんです。あの男は私の叔父でもなんでもありませんし、私が先生の所へ行くのを頼んだ訳でもありません。女にも当然終りの美学はあります。先生が新しい有能な学生に出会って、私に対する関心を失われたのは、御恨み申し上げますが、だからと言って、男を使ってユスリ紛いの事は致しません。あれは、私の事を心配した弟が知合の自称右翼の男と相談して勝手にやった事です。そうでもすれば、先生の気持が戻るかも知れないし、駄目ならそれなりの復讐になると弟は考えたのです。」
 そう言って、佐和子は視線を外しながら、更に言葉を継いだ。
 「一度離れた心は、二度と戻りません。その様な例は、現実世界にも、フィクションとしての文学の世界にもありません。私はその様な例を知りませんので、覚悟は出来て居ました。最初から終りを覚悟した上での事だったのです。ですから世俗的な御金なんかは要りません。ですが、先生なりの終りの美学を全うして頂けませんか…。」
 「私の方の終りの美学とは何だろう。私には判らんよ。」
 「先生は、何んにもなさらないで、唯私を放り出す事だけを考えておられます。それに対し私が騒ぐ事を美学に反すると言って押さえ付けるだけなんです。先生も一度は私の能力に賭けて立派な研究者にして下さると言いました。だから、そうして下さる事が、先生の最後の行動の美学ではないのでしょうか。」
 「私に何をせよと言うのかね。」
 「私の助手論文の完成の御指導を継続して頂き、その後に、私を然るべき大学の専任講師に推薦して下さる事です。」
 「君の論文―――源氏物語に於ける色彩と造形論―――は、既に完成して居るじゃないか。それに、私の自由に出来る専任講師のポストは今の所ないし…。」
 「私の論文は助手論文であると同時に博士論文を兼ねているのですから、最後の仕上げを御願いしなければなりません。講師のポストは先生が兼任して居る女子短期大学の専任講師を御辞めになり、その後任に私を推薦して下されば良いのです。先生はそのポストを彼女の為に取って置く御積りの様ですが、それでは私の研究者としての立場が完成しません。」
 「うーン。君もしたたかな事を言う様になったものだ。」
 「女一人で生きて行けと言うのならしたたかにもなります。先生が鍛えた様なものですわ。御承知くださいますね。」
 「仕方がなかろう。自分で蒔いた種だ。自分で処置しよう。その方が、手切金だ、弁護士だと言うよりは、少しは綺麗かも知れんからな。」
と教授は自嘲気味に呟いた。
 既に日の傾いた境内の五重の塔は黒々と静まり返って居たが、この時一陣のつむじ風が二人の足元から塔の方に向って走って行った。

(完)



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