所感
〜中央大学管弦楽部第五二回定期演奏会に寄せて〜


 平成一六年一二月四日(土)東京芸術劇場大ホールでの中央大学管弦楽部第五二回定期演奏会は、例年になく指折り数えて待たれたものです。
 それは、今年度の朝吹部長が、女性ながら、体育会系の迫力ノリと情熱で部活動を引張って居るのが、事ある毎に伝わって来ていたので、それがどの様に結実するのか、大変気にもなり、期待もされたからです。
 幸にも、当日は夜半に来襲した時期遅れの熱帯性低気圧(東京で風速四〇メートルを記録)に直撃されることもなく、開演間近に少し雨が降り出した位で、客足も順調だったと思います。
 小松先生のプレトークを皮切りに、シューベルト「ロザムンデ」序曲、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」、そして、ナレーション附のチャイコフスキー「くるみ割人形」のどれもが、朝吹部長らが目指した立派な中大的に充実した剛毅さを発揮して居て、大変佳いコンサートになったと思います(中大的剛毅と言っても、ナレーションのクララっぽく可憐に見えた女の子が中大オケ現役とは、脱帽敬礼ものでした)。
 然し、私が予想だにせず、感動して已まないのは、ドヴォルザークのチェロ協奏曲でした。そして、これこそが、今回の定演が私をして指折り待たせた、隠された真の秘密の理由だったと痛感させるものでした。
 独奏の山本裕康ヒロヤス先生は、現在エレキベースに打込んでいる私の愚息を、大学生の時先生のお宅に連れて行ってチェロのレッスンを受けさせたこともあり、多少は存じ上げていたのですが、山本先生と上杉先生との間柄とか交友関係は、都響のお仲間であるという以上に深くは知りませんでした。
 ですから、当日のプログラムで、「殿へ」と題された(この表題を目にして最初は「〜どのへ」と読み、宛名を欠いた変な感じを受けたのですが、これは米沢藩・上杉鷹山第二十何代目かの末裔である上杉先生に宛てた「トノへ」だとはその後直ぐに気付きましたが…)、山本先生の出演者のメッセージの中の対話、「ひろやす、お前のドボコンは想像できる。特に2楽章はこういう感じで弾くだろう…」と言われたのに対し、「それが全く間違っている事をいつか証明します。」と遣り返した部分を読んだ時も、演奏前にその演奏家が演奏する演奏スタイルや曲想の表現を言い当てるなどとは、サムライが相手の手の内や斬り付けて来る(剣)技を事前に読み取るのに似た、達人技だと感心したものの、それ以上には踏みこめませんでした。
 ところが、この曲の冒頭の、深い森の精か、或いは、矢張りボヘミアの大地の霊であろうか、低く何かを語り始めた様な序奏が耳に響いて来た時、私はハッとしました。これは若しかすると上杉先生の生涯と死を語ろうとするのではないか、と。そして、独奏チェロがこれを引継いで立ち現れた時、私の胸は金縛りになったばかりか、大きく喘がんとするのを感じたのです。 
 あっ、これは上杉先生に対するレクイエムだ、そして、山本先生の追悼演奏なのだと、私はハッキリと理解出来たのです。
 第一楽章のカデンツァ、山本先生の厳しくも繊細で哀切極まりない演奏と曲想に耳を託して居る内に、あふれる涙になって来て仕舞いました。件の第二楽章もしみじみと心に沁み入って来て、(山本先生のこの楽章のカデンツァの厳しくも追慕の情に満ちた熱い演奏を、上杉先生は生前からかい半分に型を崩して、甘いメロディの歌い廻わしで「ひろやす、こう弾くんだろ。」とでも口三味線を為さったのだろうか…、それに対する「ひろやす先生」の心からなるアンチテーゼ)、最早、唯の音楽を聴く状態ではなくなって居り、中大オケが弾いているのも現実感を喪い勝ちでした。第三楽章も当然、胸一杯でしたが、堂々たる激しい曲がホールに余韻を残して終ったのです(完全なるアウフヘーヴェン若しくは昇華)。
 これでやっと判ったと思いました。
 山本先生が小松先生や上杉先生のお勧めにも拘わらず、一〇年来中大の定期のステーヂにソリストとして乗らなかったのが、上杉先生のその言が遺言になって仕舞った正にその時に、その約束を果たすのかの様に、然し、気持としては追悼、追憶、追慕の気持で、登壇して下さったことを、そして、曲はどうしても、ハイドンやボッケリーニのそれではなく、この曲でなければならなかった事を…。
 脳天をガーンとやられた思いです。
 山本先生のプログラムでのメッセーヂはこれだったのだ。
 だとすれば、このプログラムビルディング(曲と奏者)を小松先生が知らない訳はなく、むしろ、小松先生が仕向け、山本先生が受けたというのが真相でなかろうか…(音楽の達人たちの、何と言う友情の交感であろうか)。だからこそ、今日の小松先生は何時もの人民服型スタンドカラーの指揮服ではなく、テイルコートの正装なのだ。
 それに対し、後輩達の定演を楽しみにし、喜びともしている為、私としたことが、今日も例年通り、赤いベルベットのジャケットを羽織って来ているが、恥ずべし! 若し、そうと判っていたら(事前に判るべきであり、見抜くべきだった…!!、当然喪服か喪章を着けるべきであったのに…。
 家に帰って、プログラムの曲目解説を読んで、ドヴォルザークのチェロ協奏曲が、今迄思いもしなかった、上杉先生へのレクイエムに成り得た理由が判った気がした。ドヴォルザークには本来的に「レクイエム」や「スターバト・マーテル」などの曲があったとしても、チェロ協奏曲はこれらに引けをとらないのだ。そして、中大オケと山本先生、小松先生の組合せでは、これでなければならなかったのだ。
 それは、此之曲がベースとしてアメリカ滞在中の作曲家が故国ボヘミアへの望郷の念に胸塞がれて居る気持の在り様のその上澄みに、思いを寄せて居た人の病と死に対する切々たる祈りと思慕の情が、独奏チェロやヴァイオリンで時に激しく、時に諦念に似て、詠い継がれて行く曲として作曲されたとの事を知ったからである。そして、あのカデンツァとアンコールのバッハの独奏チェロ組曲からのサラバンド(私のあまり聴いたことのない曲だったけれど、山本先生がその音楽人生を掛けてチョイスした銘ピースだった)は、地上と天上に響く一対の心情告白と聴こえてならなかった。

             木の間なる染井吉野の白程の
               儚かなき命を抱ける春かな
                (与謝野晶子の鉄幹に捧げた挽歌)

             深草の野辺の桜し心あらば
               今年ばかりは墨染めに咲け
     (新古今集、太政大臣藤原基経の死を悼んで、上野岑雄
      大事なあの方に死なれたのだから、今年も花は咲くにしても、
       華やかな桜色ではなく、墨染めの衣の様な色で咲いて呉れ)
                  

〔補 足〕
 今回は中大オケ第52回定期だった訳だが、その永い定演の歴史の中で、私の心に残って居るのは、自分達が先ず最初に打上げた第一回定期(ベェートーヴェンの「運命」と「V協」)、これに続いた第二回の「エロイカ」、そして、松井前監督の第一五回定期のシエラザード、第四〇回のサントリーホールでのマーラーの交響曲第一番、それに、何時の定期だったか(調べて貰ったら第三一回)府中の森芸術劇場どりーむホールでのラフマニノフの交響曲第二番である(噫々、それに第二〇回定期の中嶋君への追悼演奏会も在った、別宮先生の管弦楽の為の「二つの祈り」だった)。私に取っては、どれも音楽外的要素が感動の素となって忘れ難いものになって居るのだが、今回のドヴォコンは、誠に強烈なものになった。

             春毎に 花の盛りはありなめど
               相見んことはいのちなりけり
                (古今集 詠み人知らず)

             老木は花もあわれなり
               又幾度か春に遭うべし
                (西行法師)

             願わくば花の下にて春死なん
              そのきさらぎの望月の頃
                ( 同 )

 山本先生はプログラムのメッセーヂの最后を、上杉先生に対し「異論反論オブジェクションは、いつかちゃんと聞く機会をもうけますから。」と結んでいます。人生、一期一会もあれば、末期の永訣もあるけれど、又、必然的再会も有り得ることを誓っているのだと、私は感じた。然し、上杉先生と同じ天国行きの切符を貰えずに、煉獄往き、或は地獄行きの切符を手にして、先生に会えない事も有る訳で、だから、心から誰かにレクイエムを歌って貰わなければならないのだ。
 私は先生に逝かれて、その事をどう受止めれば良いのか判らず、従って又、充分な弔意も表せない侭、何んとも不安定な思いに揺れて居たので、今回のドヴォコンは私の魂も鎮めて呉れるレクイエムともなったと思い、それを演奏した小松先生、山本先生、そして中大オケ現役に心から感謝するものである。
 古来、葬送の儀礼は時代と国に依って様々であるが、此之度の楽葬(敢えて、音楽葬とは言わない)は、誠に立派なものであったと言えば、上杉先生に失礼であろうか…?
 私には、いつものレセプションでの甘辛口な上杉先生の講評の甘い方で、「ハイッ、皆様おつかれ様でした。今日は、私がトレーニングしなかったのに、みんな良く準備してガンバりました。今日の山本先生のソロは少し悲愴感が強かったけれど(まさか、ひろやすはこれを言いたかった訳ではなかろうに)、オケはそのソロが何を考え、何を表現しようとしているのかを良く知って、何時になく繊細なアンサンブルで答え、山本先生に引けを取らなかった。はいっ、今日はありがとう御座居ました。」と含羞の人の笑みを浮べて下さった、と思われるのである
 その御尊顔は、先生が生涯一度になって仕舞った、新宿文化センターでの「第九」を指揮為さった後の充実した満足感に溢れた、あの時のお顔と重なってならない。
不 一



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