西行と和鞍

(一)
 西行法師が弱冠二三才の若さで出家する前の、未だ俗世に在って鳥羽天皇北面の武士佐藤義清(のりきよ)と名乗って居た頃、義清は歌之道こそ修業時代であったが、蹴鞠、競べ馬、流鏑馬に於ては、既に名手・達人と認められて居たそうである。
 そんな事を私が知ったのは、四〜五年前の事であるが、何だか、非常に嬉しくなったと同時に、遙か遠く、無縁の存在であった歌の聖・西行法師がぐっと身近に感じられたものであった。
 それは、私が自分を東京湾のダボハゼと卑下しながらも(ダボハゼは悲しむ、湾の底で目の前に流れて来るモノは何んでも一応は食い付いて見る好奇心は旺盛なるも、スズキやブリの様な出世魚と違って、大海原に出て行くこともなく、生涯を湾内に終ることを・・・)、それでも口では‘文武両道和歌管弦之道’を吹聴し、合気道、居合、弓道そして流鏑馬を曲がりなりにやって来たので(それに、学生時代は学生アマチュア・オーケストラでティンパニーを叩いて居たりしたのだが)、この流鏑馬の一点に於て、八百拾数年の時空を超えて(西行は鎌倉幕府成立の二年前の1190年七三才にて没)、西行法師との接点が持ち得たからに外ならない。それ迄の私は、西行に付いては、

       願はくは 花のしたにて 春死なん

                 そのきさらぎの 望月の頃

の一首しか知らなかったと言うべきなのだ。

(二)
 その私に、最初に西行への関心が植付けられたのは、四〜五年前の9月23日(秋分の日)、当時私なりに恒例として居た東京世田谷の馬事公苑に於けるJRA「愛馬の日」のイヴェントに、流鏑馬で出場したのを、年取った御母堂を伴って見物に来た知人が、辻邦生著「西行花伝」の次の部分をコピーして送って呉れたのが発端であった。
 『わたしたちの騎射は正式の流鏑馬ではなかった。鏑矢を使わなかったし、作法も何一つ知らなかったからだ。わたしたちがそれを改めることができたのは鳥羽院四天王の一人源重実が葵馬場を通りがかり、わたしたちの騎射争いを見たからだった。重実殿はわたしたちを改めて屋敷に呼んでこう教えられた−流鏑馬には一定の作法があり、弓の握り方、鏑矢の支( 番?)え方、弦の引き方、的への向い方など、どれ一つとっても、すべてあるべき型が定まっていて、それから外れると、いかに矢が的を射ぬいても、それが雅な匂いを失うことになる。ここで大事なのは、的を射ぬくということと同時に、雅であるということなのだ。どちらが大事かといえば、的に当たることより、むしろ雅であるということだろう。なぜなら雅であるとは、この世の花を楽しむ心だからだ・・・。』と。
 ところで、「西行花伝」は、それ以前に内のカミさんから、読んだらどうと文庫本を渡されて居たのだが、最初の数行を読んで投げ出して仕舞い、先の知人の示しに依って初めて読む気を起し、新潮社の初版本を入手して一読に及んだのだが、その当時の(ほぼ現在も同じ)私の流鏑馬の腕前はと言えば、200m程の馬馳間を落馬することなく無事完走し、出来れば定法である三つの的の中、何とか二つ位には的中させたいと云う程度であったから、この鳥羽院四天王の源重実の、流鏑馬は的中ではなく、雅でなければならぬ、美しくなければならぬとの指摘には、何とも頭の天辺を警策でハッシと叩かれた思いが走ったのである。
 この源重実の強烈な一大痛棒に依って、直ちに私の流鏑馬のレヴェルが上る訳のものでは無いが、その後の私の稽古の心構えは相当変わらざるを得なかった。

(三)
 更に、先の「西行花伝」に依れば、義清は重実の言に導かれてやがて流鏑馬の名手になって行き、鳥羽天皇所縁の、憶い出深い法勝寺での桜の宴の法楽(余興)で流鏑馬十番勝負(?流鏑馬は勝負事だった?)に勝ち抜き、女院御所別当から褒賞を受け、更には、同じ年の秋、黄葉に彩られた法金剛院への崇徳帝の行幸に際し、競べ馬十番勝負にも勝って、崇徳帝の母である待賢門院から『見事な馬捌きでした』と誉められ、その褒美を促されて、『では、お願い申しあげます。御簾をあげてお顔を拝させて頂きとう存じます』とその尊顔を拝することを求めた(とある)。『御簾の上るにつれて女院の膝が、重ねられた白い手が、手に持った黒漆に金砂子散らしの扇が、艶やかな四季草花の繍入り総模様の打掛が、緋繻子地の懸帯が、現われて参りました。やがてたっぷりとした黒髪に囲まれた女院の豊満なお顔が、池水の反射する金色の輪にゆれるなかに見えてきたのでございます。』〔中略〕『そのとき、義清どのの中から何かきらきら光るものが抜け出し、女院の身体の中に吸いこまれていった事は間違いないとぞんじます。その瞬間、義清どのには、この世に、女院以外に慕わしいものはなくなっていたのでございました。』

(四)
 「西行花伝」を一読し終えて後、私は西行に関する本を何冊か読んでいる内に、ハッと心を衝かれる歌に出会った。

       吉野山 梢の花を 見し日より
                 心は身にも 添はずなりにき

である。これは正に、先に長々と引用した最后の瞬間を歌ったものに外ならぬではないか。
 然し、次の瞬間、違うと思った。その場を歌っているには違いないが、原因と結果が逆なるを知ったと言うべきであろうか。作家の秘密や小説作法を知った思いである。
 即ち、「西行花伝」の作者辻邦生は、世に知られた先の歌から、この場面、情景を書き現したに違いないと、確信したのである。
 それは兎も角、花神に魅入られて心身の分裂した西行は、こんな歌も作って居る。

       身を分けて 見ぬ梢なく 尽くさばや
                 よろづの山の 花の盛りを

 彼はまるで孫悟空の分身の術を使って、想いの人を吉野山中総ての梢に追い求め尽くさずには置かぬと、自分を呪縛したのである。
 そして、

       吉野山 こぞの枝折りの 道変えて
                 まだ見ぬ方の 花を尋ねん

というのもあり、そして、その行き着いた先が、

 そして、

       葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ
                 忍びし人に 逢ふ心地する

なのだろう。矢張り、先の場が、やがて出家せざるを得なくなった原因となったもので(実は、もっと直接的には、先の場面の後に三条京極第での二人だけの観桜の夜の出来事があり、これは伊勢の斎宮での在原業平の禁忌にも比敵する出来事だったのだが・・・、それにしても光源氏に業平、西行と、皆さん禁忌破りばかりなのには感心、而して、寒心)、いずれにしろ著者辻邦生は、西行の出家の動機は「西行物語」の若き友人の死による無常観が原因だったとする通説に拠らず、「源平盛衰記」の‘申すも恐ある上搶蘭[を思い懸け参らせたりける’の説に依り、且つ更に、「西行」を著した白洲正子が‘申すも恐ある上掾fとは、角田文衛著「待賢門院璋子の生涯」(朝日選書)を読んで鳥羽天皇の中宮待賢門院に外ならぬことを初めて知ったと告白しているのと同じくして、これらの説に依って立って小説に仕立て上げたものと思われた次第なのである。先の禁忌の出来事も伝承なのか、業平に準(なぞら)えた作家のフィクションなのか・・・。それにしても、待賢門院も義清出家の二年後に落飾したというのは史的事実であるらしい。

(五)
 斯くして、花の寺「勝持寺」に庵を結び、花の吉野を往還し、花の歌を歌い続けた西行の花狂いが何故であったかが、判って来た様な気がして来たのである。
 私は、西行に出会う前から桜の開花は好きで、気になって仕方が無かった点では、

       なにとなく 春になりぬと 聞く日より
                 心にかかる み吉野の山

と同じ伝で、人後に落ちるものではないと思って居た。
 雪が降り出せば雪が気になり、雪道をアチコチと歩き廻り、そして花便りは人一倍注意して、花の名所のアチラコチラを訪ね歩かねば、春の心が鎮まらないのであった。
 そんな具合であったから、個人的趣味としても、桜の花の絵も特に枝垂れ桜のものが好きだし、居合を始めてから集め出した鐔のコレクションも、全て桜花を取入れた図柄のものである。

(六)
 そして、西行を知る以前の或る日、銀座の長州屋という刀屋に刀を見に行った時、私の目に光り輝いて飛び込んで来たのは、刀ではなく、その全体隅なく、どんな細部に迄手を抜くことなく、小桜紋を貝螺鈿でびっしりと埋め尽くした見事な和鞍だったのである。値段は百万円との事で、多少躊躇してその時はその侭になって居たのだが、その後間もなく私は「西行花伝」を知るに至ったので、最早値段で敬遠している場合ではなく、流鏑馬の達人、そして花狂いの西行へのオマージュとして、更には、美しく、雅な流鏑馬を目指しての稽古の励みとして入手する外ないとの気持になったのである。それで、その年の秋、長州屋の年に一度の展示即売会の会場に出向いて、多少の値引きを得てこの逸品を入手したのであった。
 それに併せて、鐙はこの鞍に似合うかと思われた小桜紋銀象嵌のものを八重洲口駅前の甲冑店「紀の国屋」で入手した。

(七)
 下手程道具に凝るとは良く言ったものであるが、因みに、かの西行・義清が使って居た鞍・鐙は実用本位のもので、矢張り「西行花伝」に依れば義清は『美しく飾りたてた唐鞍や、ぼってり厚手に作った大和鞍は、見るだけのものであって、実際に使うべきものではない、と考えていた。』そうであるが、美しく飾りたてた唐鞍を愛でる人を嫌ったり、非難したりしたこともなく、彼自身『随身の美々しい装いをして、金覆輪の鞍を置き、馬の胸に緋の房の垂れた胸掛けを廻し、虎皮の力革で吊った、黒地に銀の笹葉模様を象嵌した木鐙のうえに、ゆったりと騎乗するのも実によく似合ったのである。』との事でもある。

(八)
 そんな訳で、私は漸く入手した小桜紋・総貝螺鈿の鞍と銀象嵌鐙を現在は書斉のオーディオのレコードラックの上に並べて飾り、毎夜明かりを落とした部屋の中で、恰も吉野の山の桜を栽り取って来た如く、見る角度を変える毎に、そこここに朝日を浴びて輝く桜の花弁の世界を現出して呉れるのに陶酔しながら、何時の日か!!この鞍と鐙で、美しい、雅な流鏑馬を此之世に実現出来ればと夢想して居る次第である。

以 上

(2006・1・18)